苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書で原発を考える(その1) 「善悪の知識の木」

1. 善悪の知識の木について

「 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:15−17)

 聖書以外の古代社会において労働は苦役として卑しめられていた。ギリシャでもローマでも、労働は奴隷の仕事とされて、自由人にふさわしい営みは哲学・芸術・戦争であるとされた。労働をいやしむ価値観は、今日でもなおヨーロッパの知識階級のなかには強い。これは科挙の国、中国・韓国においても同じである。
 日本では、知識階級としての貴族による政治が実質上は早く終わって、鎌倉幕府以降、武士階級に政権が移ったせいであろうか、諸外国と比較すれば肉体を用いる労働が軽んじられることが少ない。とはいえ、もう一方で江戸時代には武士が町民たちの労働に携わることは恥ずべきこととされたので、浪人たちはひそかに傘貼りの内職などをして、「武士は食わねど高楊枝」をしていなければならなかったことを思えば、五十歩百歩かもしれない。
 こうした価値観を色めがねとして創世記を読む人は、「堕落する前は、アダムは働く必要などなく、木の実を食べて楽をして暮らしていた。だからエデンの園は楽園だ。」などという誤解をしていることが多い。しかし、創世記は、神は人間の堕落以前に、「エデンの園を耕させ、守らせた」と告げている。労働は、ほんらい、神が人にたまわった祝福ある命令なのである。これを神学では文化命令と呼ぶことがある。

 園の所有者は誰か? 万物を創造した神である。人は、創造主から託された園を世話する管理人である。管理人は園の所有者の意向に沿って、これを管理しなければならない。管理人にとって肝心なことは、自らの分をわきまえる「慎み」である。その管理の務めが、「園を耕し、これを守る」ことだった。
 
 禁断の「善悪の知識の木」は神の人に対する権威のシンボルである。人は善悪を決定する権威をもってはおらず、神が善悪をお定めになる権威をもっていらっしゃる。人は神が定めた善悪の枠のなかで、その生を営むことが許されていて、その枠を超えるときには「死」すなわち神との断絶という実を刈り取ることになる。
 悪魔は、善悪の知識の木から取って食べれば、あなたは神のようになれると誘惑した。神の指図など受けず、善悪を自分で決めて生きていけるのだと言ったのである。そして実際、最初の夫婦は、善悪の知識の木の実を取って食べてしまった。これは自らの園の管理者としての分をわきまえずに主人のようになろうとしたことであり、人としての分をわきまえず神のようになろうとしたことであった。

 人は人としての分を越えてはならない。筆者は、原子力利用と遺伝子組み換え技術は、この「分を越えること」にあたると直感する。それは直感なので、完全に説明することはできないが、要するに、被造物の分際でありながら、創造主の設計に対してケチをつけ、踏みつけにしているのが原子力利用と遺伝子組み換えではないかということである。それは「耕し、守る」という枠を越えてしまっているのではないかということである。原子力利用は自然界にもともと存在しないセシウムストロンチウムプルトニウムといった放射性物質を作り出し、遺伝子組み換え技術は自然界にもともと存在しない生物を作り出してしまう。
 信州には別荘があちこちにあるが、別荘の管理人は、別荘の主人の意向に沿って、これを管理することが求められている。もし管理人がこの別荘は自分の趣味にあわないといって、勝手に改造をしたり、建替えたりしたら、主人の怒りを買うかクビにされるかするだろう。
 同じように、被造物の管理人には、被造物を「耕し、守る」ことが求められているけれども、被造物を勝手に改造して、破壊してしまうことは許されていない。もし、そういうことをするならば、人は恐ろしいしっぺ返しを受けることになる。事実、今、私たちは福島の原発事故において、そのしっぺ返しを受けている。筆者の観測では、遺伝子組み換えもまた人が制御できない病原菌などを作り出すことによって、いつか恐るべきバイオハザードをもたらすだろう。

 人間にはふたつの限界がある。ひとつは人間が無限な神ではなく有限な被造物にすぎないという、存在論的限界である。もう一つは、アダムの堕落以来、その有限な人間には罪が入ってきたことゆえの倫理的限界である。
 今回の福島第一原発の事故は、原発は揺れには耐えたが津波によって電源を喪失して破綻したという半分虚偽の宣伝が行なわれている。事実は、津波が来る前に、原子炉のもっとも肝心な部分が400ガルないし500ガル程度の揺れで破壊されていた。
 その破損箇所は、原子炉圧力容器につながる再循環系のパイプであろうと指摘される。再循環系のパイプには、数十トンもあるポンプが宙吊りになっていて、これが地震で激しく揺れてパイプの溶接部分が損傷し、そこから圧力容器の冷却水が噴き出したために、燃料棒が露出して、メルトダウンにいたったということである。この弱点はすべての原子炉に共通する弱点であることは、以前から反原発派によって指摘されていた。
 原発の配管は実に全長80キロメートルに及び、溶接箇所は25000箇所におよぶという。ミスゼロでこれを溶接することができるだろうか。また、いったん出来上がっても、高圧の熱水によってたえす劣化してゆく配管を保守点検するのは、人間の手作業である。作業員たちは数十年にわたって、生命を脅かす放射能の恐怖のなかでこれらを、ただの一箇所のまちがいも手抜きもなく保守点検していかねばならない。これは人間のふたつの限界を越えた作業である。
 武田邦彦氏は、かつて「原発は技術としては安全だが、原発を造る人間、原発を管理する人間が立派ではないから、原発は危険である。」と述べていた。私たちは、人間が無限の神でなく有限な被造物にすぎず、主人ではなく管理人であり、しかも、ひとたび神にそむいて以来、管理人の本性には自分勝手な罪というやっかいなものが入り込んでいるという現実をわきまえなければならない。この「人間は立派ではない」という現実をわきまえるなら、原発利用は人間には不可能であることはあきらかであろう。