苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖霊の人格とお働き

  2011年6月12日 小海ペンテコステ礼拝

序 今年のペンテコステは6月に入りました。6月といえばジューン・ブライドというわけで、今年のリースはどことなく花嫁さんふうです。聖書は教会をキリストの花嫁と呼びます。婚約式のとき、婚約指輪などの婚約のしるしとして記念品を贈ることがありますが、花婿イエス・キリストは私たち教会に、聖霊という保証をくださいました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」エペソ1:14
 今年のペンテコステは、聖霊というお方について学びましょう。

1.三位一体の第三番目の位格として

 聖霊について知るべき第一のことは、このお方が三位一体なる神様の第三番目のご人格でいらっしゃるという事実です。聖霊は単なる力やエネルギーではなく人格です。
 聖書は、明確に神は唯一であり、ほかに神々はいないと教えています。
イザヤ書45章5節には「わたしが主であるほかにはいない。わたしのほかに神はいない。」 
 それと同時に、もう一方で、聖書は、その唯一の神のうちに、父(神)、御子(イエス)、聖霊という三つのご人格があることを啓示しています。たとえば、マタイ福音書28章の末尾に、「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授け」とあるように、父・子・聖霊は同等の存在として語られています。また、「御名」ということばonomaは単数形で記されています。
 というわけで、聖書を啓示なさった神様は、父と子と聖霊という三つのご人格のある、唯一のお方なのです。聖霊というお方が、モノではなくて、ご人格であるということはとても大切な認識です。聖霊は語りかけ、喜び、悲しむお方であると聖書は教えています。私たちは聖霊を悲しませるのではなく、喜ばせる歩みをしたいものです。

2.聖霊の創造と保持における働き

 次に聖霊のお働きについてです。
創造における聖霊の働きが創世記1章に記されています。
「1:1 初めに、神が天と地を創造した。1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」ここにある「神の霊」とは聖霊のことです。「神の霊は水の上を動いていた」と訳されている、「動いていた」ということばは、親鳥が雛たちを見守りながら翼を羽ばたきながら巣の上を動くあのありさまです。
 ちょうど、そのように、聖霊はこれから造られて行こうとする世界のもとである世界を見守りつついらしたというのです。そうして、「光よ。あれ」に始まる神からのことばの数々にしたがって、この世界を作り上げて行かれたのでした。
カルヴァンは「この御霊こそあらゆるところに広がって、すべてのものを、天においても地においても支え、動かし、生命を与えたもうからである。・・・しかも、御霊はすべてのもののうちに力を注ぎいれ、本質と、生命と運動とを吹き込むことにおいて、明らかに神としての存在である。」(綱要1:13)と言っています。
 
3.私たちの救いのための働き

次に、それと同時に、神の民の永遠の命にいたる救いのために、特別なお働きをしていてくださっていることについて。
父なる神が救いの計画を主宰なさり、御子イエスが御父のご計画にしたがって人となって地上に来られて十字架にかかって復活して私たちの罪の贖いを成し遂げられました。贖いのわざを成し遂げて、御子イエスは父なる神のみもとに上られました。そして、父に願って、教会に聖霊を送ってくださいました。その聖霊がくだられた記念日が今日、ペンテコステです。御父が主宰の働きをし、御子イエスが実行の働きをなさるとすれば、聖霊は御子が獲得された救いを私たちに適用してくださる働きをなさいます。イエス様が、その完全な愛の生涯と十字架の死によって勝ち取られた、神の御前における功、永遠のいのちという救いを、教会に渡してくださるのが聖霊のお働きです。より具体的にはつぎのようなことです。
(1)聖書の啓示と照明
聖霊は、聖書を霊感してくださいました。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」2テモテ3:16
 聖書の記者たちは40人あまりであり、聖書は66巻から成っているものですが、そこに調和と統一性があるのは、一人の著者である聖霊がいらっしゃるからです。聖霊が、多くの聖書記者たちの能力・置かれた状況のすべてを導き用いて、聖書を書かれたのです。
では、私たちはその聖書をどのようにして正しく理解し、自分自身の人生に適用することができるでしょうか。それは、聖霊のお働きによることです。
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」ヨハネ16:13,14

(2)罪の自覚とイエスを信じる信仰
 聖霊が神を求め聖書を読む者にまず明らかにしてくださることとはなんでしょうか。イエス様はおっしゃいました。「この方が来ると、罪について義についてさばきについて、世にその誤りを認めさせます。」聖霊は、私たちに神様の前で自分には罪があるという悟りを与えてくださるのです。それまでは、自分は正しい人間である、愛のある人間である、良心的な人間であると自負していた人が、聖霊の強い光を当てられるときに、自分はなんとみじめな罪人であるかという事実に目覚めるのです。そうして、このみじめな罪人である私をだれが救ってくださるのだろうと探し始めます。皆さんの多くもそういう経験をなさったでしょう。

 次に聖霊が私たちの心を照らしてくださるとき、私たちは福音書のうちに表わされたイエスというお方が、私の罪のために十字架で苦しんでくださった神の御子キリストであるということを悟るようになるのです。聖霊の照らしがなくて、異邦人であっても、無神論教育を受けて洗脳されない限り、人は創造主である神がいることは分かるようにされています。「神の永遠の力と神性は世界の創造されたときから明らかであって、彼らに弁解の余地はありません。」一般啓示によって、人は創造主がいることくらいは知ることができます。昔、サーカスのテーマ曲のようになっていた「美しき天然」という曲があります。

美しき天然
                   武島羽衣 作詞(明治5年生まれ)
                   田中穂積 作曲
空にさえずる 鳥の声
峯より落つる 滝の音、
大波小波 とうとうと
響き絶えせぬ 海の音、
聞けや人々 面白き
此の天然の 音楽を
調べ自在に 弾き給う
神の御手の 尊しや

春は桜の あや衣
秋は紅葉の 唐錦
夏は涼しき 月の絹
冬は真白き 雪の布
見よや人々 美しき
この天然の 織物を
手際見事に 織り給う
神のたくみの 尊しや

誰しもが創造主の存在は本能的にわかります。しかし、イエス様が主なる神であることは、聖霊によらなければわかりません(1コリント12:3)。現代でも創造主は信じられるけれど、二千年前に地上に来られて救いを解いたイエス様が神の御子であることだけは信じられないという人がいるものです。どうすれば、イエス様が神の御子であるとわかるのでしょうか。聖書を読むときに、聖霊様にたすけてくださいと祈ってから読むことです。ほんとうにイエス様が神様の御子でいらっしゃるなら、私に教えてくださいと祈って読んでごらんなさい。かならず聖霊は教えてくださいます。

4.私たちの霊的成長のための働き

 イエス様を受け入れて後、生涯にわたる信仰生活は、イエス様がくださった御霊の保証によって支えられます。最初に申し上げたように、イエス様は私たちが御国を継ぐことの保証として御霊を与えてくださいます。
(1)みことばによる成長
 聖霊はイエス様を信じる人のうちに住まわれて、日々助けてくださいます。日々、実ことばに親しんで、みことばの糧によってわたしたちは霊的に成長して行きます。「みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(1ペテロ2:2) ですから、私たちは日々みことばに親しむときにも、ひとこと祈ってから聖書を読むようにしましょう。「聖霊さま、あなたが私になにを語りかけていらっしゃるか、よくわかるように助けてください。」と。

(2)御霊による祈りと賛美
 また、聖霊は私たちのくちびるにが祈りと賛美を与えてくださいます。聖霊に満たされて祈り賛美するとき、私たちの心は自由と喜びとで一杯になります。「酒に酔ってはいけません。御霊に満たされなさい。」とあります。酒と御霊には似たところと違うところがあるようです。似たところというのは、両方とも楽しい解放感を与えるという点です。両者が異なっていることは、酒は人を愚かにして放蕩へと誘惑しますが、御霊は人を賢くし神のみこころをわきまえさせることです。
しかし、私たちの人生には、ときに、あまりにも困難な状況で祈ることばも湧いてこないようなことがあるでしょう。悲しみに胸ふさいでしまって、ことばが見つからないというようなときは、聖霊が私たちのためにとりなしてくださいます。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深い呻きによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)

5.天国において

 私たちのこの世の人生にも、やがて終わりのときがやってきます。御国を受け継ぐ保証として聖霊をいただいた私たちは御国に行くことになります。天の御国はあまりにもすばらしすぎて、私たちが使う普通の表現では表現しきれなかったからか、神様は、ヨハネに対して映像でもって、天の御国のありさまを表現なさいました。
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」(黙示22:1,2)
 神とは父なる神、小羊とはイエス様です。神と小羊の御座から流れですいのちの水の川とは、聖霊にほかなりません(エゼキエル47)。天の御国に住まうようになるとき、私たちは御父と御子からこんこんとあふれ出るいのちの水として表現される聖霊様に満たされ、潤されて、日々喜びと感謝と自由のうちに、神にお仕えすることになります。今は、罪や弱さのゆえに十分に主にお仕えできない私たちですが、御国に行くときには、私たちは御霊の癒し、完全な満たしをいただいて、こころゆくまで神様をよろこんでご奉仕することができるのです。