苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

愛国心という歴史現象


    (ルピナス

 「愛国心」は近代人にとっては常識となっている。だから愛国心を否定する者は非常識な人間とみなされる。たとえ日の丸・君が代を否定する人々であっても、たいていは「真にこの国を愛するからこそ、あえて日の丸・君が代を否定するのだ」と説明する。それほどまで、「愛国心」は常識化・絶対化されている。
 愛国心は、国民に対して究極的には「祖国」のために自分の生命をも犠牲にすることを要求する。それほどに近代人にとって国家は、絶対的な価値なのである。だが聖書的観点からすると、人に、その生命を犠牲にすることまで要求しうる絶対的価値は、本来的には人に生命を与えた神ご自身以外には存在しない。国が人に生命を与えたわけではない。そういう意味では、国民の命の犠牲までも要求する近代国家というのは、神に代わる巨大な偶像か、あるいはそこまで断言できないまでも偶像的なものである。絶対は神のみである。絶対でないものを絶対視することを偶像崇拝という。これは戦前の日本だけのことではなく、近代の諸国家すべてにおいていえることである。
 歴史を振り返ると、このような愛国心は時代を超えて普遍的な価値であったのかというと、そんなことはない。愛国心は近代国民国家が成立して後、生じたものであるから、欧米でここ200年ほど、日本ではわずか150年ほどの特異な歴史現象である。つまりひいばあさん、ひい爺さんのころ始まったばかりだ。
 ヨーロッパで近代国民国家が成立したのはフランス革命1789年以後のことである。それ以前、中世には民は領主に属していた。領主たちが立てているボスが王であったから、民は領主とつながってはいたが、王とは直結していなかった。やがて専制君主が力を増して行き、領主階級の力が削がれるにつれて、徐々に民に国家の意識が生じたといわれるが、土地と民とは国王の財産であり、結婚のとき、王妃は持参財産として領土と領民を携えてきたので、国境は王の結婚で移動したし、また王たちが戦争をするたびに移動したから、その地域の住民たちは確たる愛国心など持ちようもなく、持つ必要もかった。「一定の国境線に囲まれた地域の一定の国民から成る」という近代的意味での国家が存在しなかったのであるから、愛国心など持ちようがなかった。また当時、戦争は、国王直属軍と王と契約した軍人貴族(領主たち)の仕事であって、庶民は戦争などという血なまぐさい仕事をする必要はなかった。
 ところがフランス革命で国王と領主階級(貴族)の首をギロチンにかけてしまうと、民と中央政府が直結することになり、ここに「国民」が生まれ、国民政府が国家の所有者となった。だから、押し寄せる反革命軍を撃退するために、民は「国民」として自ら銃を取らねばならなくなった。ここに、熱狂的な愛国心に満ちた国民軍が編成され、国民教育もなされることになった。こうして近代の戦争は悲惨な総力戦になっていく。従来の戦争は、プロの軍人の仕事であったから、兵士の動員にかぎりがあったし、仕事として戦っている以上、死んでしまっては元も子もないので戦うにも限度があったが、国民国家が成立し徴兵制が敷かれると、命がけの兵士たちをいくらでも調達できるようになったのである。フランス国歌ラ・マルセイエーズには、その「祖国」を得た国民国家の熱狂がよく表現されている。ウィキペディアの翻訳で紹介しよう。



進め 祖国の子らよ
栄光の時が来た
我らに対し 暴君の
血塗られた軍旗は 掲げられた
血塗られた軍旗は 掲げられた
聞こえるか 戦場で
獰猛な兵士の怒号が
奴らは来る 汝らの元に
喉を掻ききるため 汝らの子の
<コーラス>
市民らよ 武器を取れ
軍隊を 組織せよ
進め! 進め!
敵の汚れた血
田畑を満たすまで
市民らよ 武器を取れ
軍隊を 組織せよ
進め! 進め!
敵の汚れた血
田畑を満たすまで




 わが国では明治より前、幕藩体制の江戸時代には、そもそも「日本」という国がなく、したがって日本国民もなかった。だから、あたりまえだが愛国心もなかった。あったのは各藩、各地方であり、薩摩人、信州人、会津人といった人々である。しかも、領民は領主の所有であり、戦争を担当したのは武士階級であるから、藩のために戦争に出かけて人を殺し人に殺されるという血なまぐさい仕事は庶民とは無関係だった。庶民軍が編成されたのは、長州藩が馬関戦争で諸外国軍に惨敗して後、高杉晋作が興した奇兵隊が最初である。
 維新となって欧米列強の脅威に対抗するために、天皇を中心とした明治政府への権力集中が図られた。そのために、版籍奉還廃藩置県がなされて列島住民は「日本国民」だという自覚を持つように教育され、また廃刀令が出されて武士が廃止されて国民皆兵が実施される。伊藤博文は欧米のキリスト教に代わる国家神道を作り出し、その経典である教育勅語が学校教育の根幹とし、国定教科書を用意した。こうして、それまで田畑を耕して「鼓腹撃壌」していればよかった大半の列島住民たちは、「一旦緩急アレバ」天皇のために喜んで人殺しをし殺される愛国心を持つことが要請されるようになる。というわけで、この列島で愛国心の歴史は、わずか百数十年ほど前に始まった。このように愛国心というのは近代国民国家成立に付随した特異な歴史現象であるから、普遍的・絶対的価値ではない。
 ところで、ここのところの地球的環境危機、IT革命、企業の多国籍化といったグローバリズムの動きのなかで、近代国民国家という枠がすでに緩んできていて、世界は国境のあいまいな中世的な世界、あるいは古代の帝国的な世界に移行しつつあると指摘する歴史家がいる。特に巨大な多国籍企業は従来の企業のように、特定の国家に対して税金を納める忠誠心を持つわけではなく、企業自体の利益のために振舞うものである。その経済規模は国家予算を上回るばあいもある。
 グローバリズムの動きは、西洋古代の歴史でいえば、ポリス社会からヘレニズム世界の移行と類似している。ポリス社会では、人々は自分のアイデンティティをポリス市民として位置づけたが、ヘレニズム世界になると人々は個人主義的になり世界市民コスモポリタンになっていった。そのように、グローバリズムの時代の中では、もはや狭い愛国心ではなく「愛地球心」が要請されることになるのだろう。とはいえ、過去の歴史を見ると、フランスでも日本でも諸外国の軍事的脅威という現実に対応して強烈な愛国心というものが生じたことから考えると、火星人でも襲来しない限り「愛地球心」などというものは観念的なものにとどまらざるを得ないのかもしれない。

追記>鼓腹撃壌
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-129.htm
愛国心を強調するのは、政治家として二流・三流のしるし。

追記>この文章を読んで、多国籍企業ないしグローバリズムが愛地球心を醸成すると誤解なさるむきがあるようなので、そうではないと付け加えておく。国民国家の枠が緩むというのが、本文の趣旨。政府は、国民国家のたがが緩むことを恐れて、逆に愛国心を強調する。
 多国籍企業の生態については、こっち参照。
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20111207/p1