苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主知主義の敗北


  (↑庭の畑のイチゴの花)

 哲学者は、人間の心の働きを知性と感情と意志という三つに区別した。そして、知性が他の感情や意志にまさっているという考え方を、主知主義といい、感情が知性や意志にまさっているのだという考え方を主情主義といい、意志の働きが知性や感情にまさっているという考え方を主意主義という。もっとも哲学では主情主義は話題にならず、たいてい主知主義主意主義のどちらが正しいかということが話題になってきた。
 これまでの原発を推進してきた名だたる大学教授たちの発言を知るほどに、筆者は、「知性というのは、こんなにも頼りないものだったのか。」と嘆かないではいられない。というのは、正常な知性で考えれば、原子力発電という技術ほど馬鹿げた技術はないからである。だから「原発安全神話」などと呼ばれてきた。神話といえばちょっと聞こえがいいが、要するに迷信である。「原発安全迷信」。神話ならロマンチックな気分になっているだけですむが、迷信なら実害を被ることになる。
 原発一基を1年間稼動させて生じる放射性廃棄物の量は、広島型原発の1000倍。全国54基の原発で、一年間に広島型原発の54000倍の放射性廃棄物が生じる。こんなわけで放射性廃棄物は、すでに青森県六ヶ所村に3000トン満杯だ。満杯だから各地の原発建屋内のプールに保管している。プルトニウム半減期が2万4000年。この放射性廃棄物が本当に安全になるまでには100万年監視しなければならないのだそうだ。こんなことを進めている政府・電力会社・教授たちに、「あなたたち、気は確かですか?」と問いたい。特に、東大をはじめとする日本を代表する知性と目される人々が、こんな原理的に破綻している技術を推進してきたという事実を見るときに、主知主義はまさに敗北だと実感する。
(参照:プルサーマル公開討論会での大橋弘忠教授の発言のまとめ
http://www.youtube.com/watch?v=HVQHaSqTp8M 議事録全文はこちら
http://saga-genshiryoku.jp/plu/plu-koukai/gijiroku-1.html#modoru
 なんで知性が曇ってしまったか。欲望によってであろう。原発推進派の「日本の経済発展のために」という大義名分でもって、「カネが欲しい」という電力会社の欲、「天下り先が欲しい」という官僚の欲望、「研究費が欲しい。教授の地位が欲しい。」という学者たちの欲望、「賄賂が欲しい」という政治家の欲望を包み隠してきたのである。いや、そもそも「経済発展」を至高の価値とすること自体が狂っている。こういう欲望が束になって、「『トイレのないマンション』なんて馬鹿げている。」というごくあたりまえの判断を押しつぶしてきたのである。原発推進者たちにおいては、知性はただ醜い欲望を覆い隠す屁理屈をつけるための道具としてしか機能しなかった。主知主義は敗北した。

 だが、自分の胸に手を当ててみれば、私たちとて欲望に関する弱さは、あの東大教授とたちとさして変わりはしない。我々罪ある者にとって、自分の損得を離れてものを正しく判断することは、なんとむずかしいことだろうか。

 主イエスは言われた。
 「あなたの宝のある所には、心もあるからである。目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」
 私たちの内なる光、知性を暗くしてしまうものはなにか。イエスは、それは宝、富だという。富は、人にとって、容易に「神」に成り代わる。
 「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。 
 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
  しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ福音書6章21節から34節)