苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

嵐の海の希望

          使徒27:1-26
          2011年5月15日 小海主日礼拝


1.専門家がまちがう時

 いよいよパウロローマ皇帝に上訴するために、イタリア半島のローマへ行こうとしています。ほかにも囚人たちを一緒に護送する任務を負ったのは、百人隊長ユリアスでした。実名が挙がっているところから見ると、後に彼はこの船旅の経験を通してクリスチャンになったのであろうと思われます。聖書に登場するローマの百人隊長は親切な人が多いのですが、このユリアスはパウロに親切にしています。
 船はカイザリヤを出帆して、海岸沿いを進んで港湾都市シドンに到着し、ここからいよいよ本格的に地中海へと船を出します。向かい風を避けてキプロスの島陰を行き、小アジア半島のルキヤのミラに寄航します。ミラで、イタリヤに行く船に乗り換えます。その後、向かい風のせいでしょう幾日かの間、船の進みはおそく、ようやくのことでクニドの沖に着きます。そのあと、小アジア半島から、クレテ島へと進み、クレテ島の東端サルモネ岬からクレテの島陰を航行し、その岸に沿って進んで、ようやく、「良い港」と呼ばれる所に着きました。
 よい風が吹かないので、船がなかなか予定通りに進みません、断食の季節を過ぎると風も波も激しくなり、航海には危険です。冬の日本海側のイメージでしょうか。そこで、パウロは、彼ら船に乗っている人々に警告しました。
「皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます。」
 どうやら断食の季節を過ぎると海が荒れるというのは、当時の世間の常識に属することだったようです。断食の季節は9月末から10月。地中海は冬の嵐のために11月11日から3月5日は航海が禁止され、5月15日から9月14日以降の航海は危険とされていました。断食の季節が終わったすでに終わったというのですから、日付は11月に入っていて航海危険域から航海禁止域に入ろうとしていました。
 しかし、百人隊長は囚人パウロの意見よりも、航海士、船長のいうことを信用しました。ユリアスはパウロに親切ではありましたが、パウロはなんといっても船については専門家ではありません。彼は船長、航海士を信用したのです(11節)。また、船長、航海士だけでなく、同船している大多数は、この港はいやだという意見でした。理由は、この港には快適な宿屋がなくて、冬を越すのにもっと良いホテルのあるピニクスまでは行きたいということだったようです。「また、この港が冬を過ごすのに適していなかったので、大多数の者の意見は、ここを出帆して、できれば何とかして、南西と北西とに面しているクレテの港ピニクスまで行って、そこで冬を過ごしたいということになった。」

 専門家の判断と多数決をもって船は出帆することになってしまいます。けれども、私たちは専門家の判断が、必ずしも正しいとは限らないということをここに学ぶべきでしょう。なぜか。間違いの一番大きな要因は、専門家はその該当することがらと利害関係がある場合、欲が働いて現実に見合った判断ができなくなっていることがあるからです。船長からすれば、荷物を運んでローマに行こうとしているわけで、商売がかかわっている以上、なるべく船荷を早くとどけたいのはあたりまえでした。船主との契約がありますから、冬越しなどしていたらお金になりません。
 それから、同船していた人たちは今また船出することの危険性よりも、かりにクレテ島で冬を越すにしても、もっと便利で快適なところでと思いました。それに、律法の専門家ではあっても航海については素人パウロが言うことより、専門家の船長・航海士が大丈夫だというのですから、大丈夫だろうと高をくくっていたのです。人間というものは、欲がからむと、状況判断が正しく判断できなくなるということがあるものです。

 私はこの箇所を読むと、パウロの乗り込んだ船が原子力発電という船、あるいは日本という船と重なって見えて仕方がないのです。利害のからむ専門家の発言、大多数の人はまあ大丈夫でしょうという安易な判断。・・・岡目八目といいます。碁を打っている当人たちは、自分の勝つこと、負けることに縛られているので、視野が狭くなってしまって、ことがらの全容が客観的に見えなくなってしまう。私たち自身、注意すべきことですね。

2.難破・損失

 さて、パウロ以外のみんなが船出しようと決めたとき、折から南からよい風が吹いてきましたので、船は錨を揚げます。しばらくはクレテ島の海岸に沿って穏やかな航海ができました。「なんだ心配することはなかったじゃないか。パウロは心配性だなあ。」などという人々もいたかもしれません。
「ところが、まもなくユーラクロンという暴風が陸から吹きおろして来て、船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができないので、しかたなく吹き流されるままにした。」
 船はクレテ島沿いに進んで、クレテ島の冬場をすごすのに快適な港町ピニクスに行きたかったのですけれども、陸から吹き降ろす暴風に巻き込まれて、船は南へ南へと流されてクレテ島から引き離されてしまうのです。想定外の事態です。
「しかしクラウダという小さな島の陰に入ったので、ようやくのことで小舟を処置することができた。」
 でも、クラウダという島には港はなかったのでしょう。快適なピニクスという連れて行くといいながら、客をこんな島に上陸させるわけには行かなかったのでしょう。船長は、船をここにとどめようとはしませんでした。なんとかなると見たのでしょう。
「小舟を船に引き上げ、備え綱で船体を巻いた。また、スルテスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて、船具をはずして流れるに任せた。」
 大きな船は船底が深いので岸には寄せられませんから、上陸用の小舟を引いていたのですが、小舟が流されてしまいそうな気配です。小舟が流されてはどこにも避難・上陸することはできませんから、これを甲板に引き上げました。
 また「スルテスの浅瀬」というのが、この辺りの海底にはあるのでした。浅瀬ほど船にとって危険なものはありません。船が座礁すればひとたまりもありませんから、なるべく船を軽くする必要が生じました。それで船具を船につないで流しておくことにします。さらに、「 私たちは暴風に激しく翻弄されていたので、翌日、人々は積荷を捨て始め、三日目には、自分の手で船具までも投げ捨てた。」とあります。
 冬を過ごさないで積荷をローマに運ぶことができたら、多大な利益を得ることができると考えた船長・航海士の思惑で無理な出航をしたのですが、結局、その大事な積荷も捨てなければ船が沈没してしまいそうなので、積荷を捨てて少しでも船を軽くすることになったのです。命あってのものだねということです。さらに、今までつないで流していた、大事な船具までも捨ててしまわざるを得なくなります。漂流することになりますが、今、すぐ沈没することだけは免れようという決断でした。
船はいったいどちらに向いて進んでいるのでしょう。もはや、それすらわからなくなっていました。突然浅瀬に乗り上げて、波に打たれて船体がばらばらになって、みんなが嵐の海に投げ出されてしまうかもしれないい状況でした。というのは、当時船乗りたちは、太陽や星を見ることで、大洋に浮かんでいる船の位置や方角を判断したのですが、太陽も星も見えなかったのです。「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとして」いました。

 欲張ったために、「想定外」の事態におちいってその船荷を喪ってしまうのです。皮肉なものです。欲張るとかえって結局はすべてを失うことになるという教訓です。アブラハムの甥ロトが、おじアブラハムを出し抜いて、ソドムのある低地を選択してよいものを得たと思ったのですが、結局すべてを失ってしまいました。あれと同じです。これはどの時代にも、今の日本に当てはまることではないでしょうか。

3.クリスチャンの役割

 船に乗っている人々は、みんな絶望していました。大波に翻弄される船室にいて、船長、航海士、乗客、百人隊長みんな、もうだめだと思って真っ暗闇のなかに置かれた気分でした。いつ沈没して波間の藻屑として魚のえさになってしまうかという状況です。かぎられた食料しかありませんから、節約に節約し、飲み水も制限しているので、みんなからだも気持ちもふらふらです。
 けれども、こんな状況のなか、パウロ一人明るい顔をし、しっかりとした声で言いました。
「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。
 昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』
ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」
 囚人であり、誰も彼の言うことを聞かなかったのですが、今は、人々はパウロを頼りにするようになっています。パウロ一人、暗い船室にあって明るい希望ある顔をしています。なぜかというと、他の人たちはこの状況の中で迫り来る死を意識して震えていますが、パウロは、ほかの人たちとは違って、イエス様がともにいてくださるからです。かりに、海の底に沈んだとて、浮かび上がれば天国の水晶のような透き通る川に出ることでることでしょう。キリストを信じる者にとっては、死は永遠の生命への入り口です。
 もっとも、主イエスは、パウロにカイザルの前に立つのだと約束してくださいましたから、仕事が終わるまでは、残念ながらまだ天国には行けません。パウロがその任務を果たすまで、生命が失われるということは、ありえないことでした。しかも、同船する人々はひとりも失われないという約束までいただいたからです。
 クリスチャンである私たちは、もしかすると、この世の人たちから見ると、通常なんの役に立っているのかわからないような存在かもしれません。けれども、実は、キリスト者は地の塩であり世界の光です。暗闇のなかの希望です。クリスチャンは、実は世にとってかけがえのない存在なのです。
 なぜか。クリスチャンとは天地の主であるイエス様がともにいてくださる存在であるから。パウロがこの船にともに乗っているということは、主イエスがともにこの舟に乗っていることを意味していました。そこに一人のクリスチャンがいるということは、イエス様の特別の守りがあることを意味しているのです。

結び

 今という時代のなか、この日本という国において、私たちは嵐の海を渡る船にいたパウロのような立場にあります。私たちクリスチャンには、イエス様が特別な意味でそばにいてくださいます。それが祝福の中心です。
 私たちクリスチャンにとっては、この肉体の死は天国への門、あるいは永遠の生命への通過点です。パウロは「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」
 そういうわけで、私たちにとっては、世を去ってイエス様のもとにいるほうが、もっと幸せですが、この地上に任務がありますから、留まっている必要があります。
任務のひとつは、この事態のなかで、不安の中にある人々に、イエス様にある永遠のいのちの希望を証していくという任務、福音宣教の務めです。
 もう一つの任務とは、目先の利益に心奪われて道を踏み誤ろうとしている人たちに、人として国として正しい航路を指し示す任務すなわち社会的責任です。
 私たち教会に、イエス様がお与えになった任務とは、伝道と社会的責任なのです。