苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

朋あり遠方より来る

 
 ふるさとの高校時代の同級生の友人M君とRさんが、連休の中日にはるばる小海線に乗って訪ねてくれた。M君とは13年ぶりであり、Rさんとは高校卒業以来だから35年ぶりということになる。M君は、Rさんたち6人で今回の連休を小淵沢ですごしていて、その合間に小海に立ち寄ってくれたのだった。M君は電話では話そうとしても話すことのできないこと、でも話しておきたいことがあるとのことだった。
 M君は高校時代は生徒会文化委員長で論客として知られた。RさんはM君と話す私をかたわらで見ていて知っていらしたけれど、申し訳ないけれど、私はほとんど知らなかった。だがしばらく話すうちに面影が記憶の底から浮かび上がってきた。文化委員会で会計をなさっていたとのこと。当時も控えめだったけれど、今回も控え目にしていらした。二人の男の子(もう独立しているが)の母親であり、ある外資系の会社に勤めていらっしゃるよし。今回の連休の集いも生徒会OBたちの集まりであるとのこと。
 当時、高校にはM君と議論をして勝てる人は教員も含めていなかっただろう。M君は予算決定の会議で、毎回そのさわやかな弁舌で、体育会系の予算を削って文化部の予算の増額を果たした。筆者の中学からの友人山岳部のY君はたいそう悔しがっていた。勝ち目があるわけがない。M君は小学校に上がるか上がらないかのころから労働組合のプロフェッショナルの論客であったお父さんに訓練されて育ったのだった。
 筆者自身は、高校時代なにをしていたかといえば、恋もせず、生徒会活動にも加わらず、部活動にも属さず、ただひたすらモリアオガエルを追いかけていたのだった。あとは、将来国文学者を志すようになってからは、国語古典の授業では、いろいろと下調べをしては、ああだこうだと議論していた。そんなわけで当時、人を遠ざけていたわけではないけれど蛙との付き合いに時間が奪われて筆者の交友関係は狭かったのだが、M君はなぜか筆者のような者のことを心に留めていてくれたのが不思議だった。
 今日、話をしていてわかったのは、月に一度くらいM君といっしょに下校する機会があると、筆者はクリスチャンであるM君になにかと反キリスト教的議論をふっかけてやっつけていたことが印象深かったのだそうである。こちらは、そんなこともあったっけくらいの記憶なのだが、M君にとっては強烈な印象として残っているようだ。もう一つは、文科系部活の発表会に個人発表として「モリアオガエルの研究」を部屋にいっぱい貼り出したことが印象的だったとのこと。このことについては、筆者はすっかり忘れてしまっていたのだが。
 そんないやな、蛙好きの反キリスト男が、大学にはいったとたん熱烈なキリスト教徒となって布教し始めたのだから、びっくりしたとのこと。そういえば浪人時代は猛暑の京都の予備校の集中講義に通うため、二週間ほど下宿をいっしょにしたこともあった。大学に入ってからも幾度かたがいに行き来したものだった。

(小海駅の桜)

 もうひとつ不思議なのは、筆者が大学卒業後、神学校で3年間の伝道者としての訓練を受けて最初に赴いた練馬の大泉学園の近所にM君がたまたま住んでいて、ふとしたことから訪ねてきてくれて、家族ぐるみの付き合いが始まったことだった。彼には東欧から来た若い奥さんがいて、敬虔な正教徒だった。神戸と信州にわかれて住むようになってからも、うちを訪ねてくださった。こども好きの奥さんで、幼児用の英語の本とオスカー・ワイルドの『幸福の王子』をプレゼントしてくださった。
 その奥さんが先年召されたのだった。そのことは私も風の便りに聞いてはいたが、彼から直接聞いたことはなかった。今回、彼が電話では話せなかったこととして、顔と顔をあわせて話したいと言っていたことは奥様の逝去に関することと、奥さんの母国のご実家で育てられている二人のお子さんたちの消息にかんすることだった。あまりにも早い別れであった。が、もう時間もたったからだろう、淡々と、そしてお子さんの話の時はユーモアさえまじえて話してくれた。自分の身に置き換えようがないけれど、置き換えて考えると、慰めることばがない。 
 帰りは、M君とRさんに野辺山高原からの八ヶ岳をどうしても見てもらいたくて、車で送ることにした。小海線からでは野辺山高原雄大八ヶ岳は見えない。滝沢牧場から、雪をいただいた雄大八ヶ岳にふたりが歓声をあげてくれたので嬉しかった。
 小淵沢に向かう車中、ふと気が付いた。おふたりを昼食に連れて行くのを忘れてしまったのだ。・・・私は十分、心の耳を開いて聴くことができたのだろうか。こんな配慮の足りない人間が、よき友に恵まれているのは、ほんとうに神のあわれみというほかない。