苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

和解のことば

「5:18しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。 5:19すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
 5:20神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。 5:21神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(2コリント5:18−21)
 この聖書箇所が告げている第一の事実は、我々は生まれながらには和解をしなければならない罪の状態に陥っているということである。言い換えれば、神と私たちの間には平和がない。ほかのことばで表現すれば、私たちは、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」なのである。我々は清濁併せ呑む「無限抱擁の神」を求めがちかもしれないが、生ける神はそのようなお方ではない。
 第二の事実は、私たちには神に対する罪過があるにもかかわらず、神は私たちにその罪過の責任を負わせようとはなさらないで、和解のためにご自分の御子イエス・キリストを与えてくださったということである。神は私たちの罪ののろいを取り去るために、罪を知らないひとり子イエス・キリストを罪ある者と見なして十字架の上で刑罰をお与えになった。そして、イエス・キリストは罪の処理が完了した証として、三日目によみがえられた。
 第三の事実は、この神との和解が現実になるためには、私たちは自覚的にキリストを受け入れなければならないということである。「神の和解を受け入れなさい」とあるとおりであり。要点は、神に向かって「ごめんなさい」とお詫びし、「ありがとうございます」と受け入れることである。
 「神様、私はあなたに背を向けて歩んできました。ごめんなさい。神様、今私は、あなたがくださったイエス・キリスト様を私の罪からの救い主として受け入れます。ありがとうございます。」と。