苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

実証主義者の信仰告白

ヨハネ20:19-29
2011年4月24日 小海復活日礼拝

1. 復活の主は群れの中にこられた

 「20:24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 」

 タイミングの悪い人、どうも空気が読めなくてとっぴな発言をする人というのがいるもので、トマスはそういう人でした。イエス様が復活してきてくださったのに、トマスはどういうわけがあったのかしりませんが、その時、群れの中にはおりませんでした。その理由について聖書は沈黙しているので、あまりうがちすぎてはいけませんが、トマスの人物像から見て、少々考えさせられることがあります。
トマスは殉教志願者でした。まだその時ではないのに、彼は何かというと「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」などと口走ります(ヨハネ11:16)。トマスの心中を察すれば「他の弟子たちはびくびくしているけれど、俺は今度こそ、官憲に捉えられてむしろ主と共に死にたいと思っているのだ」というふうなことでしょう。それで彼は他の弟子たちから離れて、ひとり物思いにふけっていたのではないか。
 ところが、主イエスは誰よりも自分こそ主のために命を捨てられると思っていたトマスに現われることはなく、むしろがやがや集まり、「これから俺たちはどうなるんだろう」、「俺たちもつかまって十字架刑にされるんだろうか」と不安の中にいる弟子たちのただなかに現れてくださったのです。
 トマスとしてはたいへん不満です。トマスが、他の弟子たちのことばを頑ななまでに信じないで言っていることには、彼の感情がよく表れています。

20:25「ほかの弟子たちが、彼に『わたしたちは主にお目にかかった』と言うと、トマスは彼らに言った、『わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない』」。

 実証主義者というのでしょうか、「神がいるなら見せてみろ。見たら信じてやる。」という人が時々いますが、それに類するひどい不敬虔とさえ思えることばです。トマスは、「俺こそ一番イエス様を愛し、イエス様のために命をささげる覚悟ができておりますのに、なぜ俺のいないときに主イエスは現れたのでしょうか?」と主に対して訴えたいような気持ちでした。

私たちは、ここからどういう真理を学ぶでしょうか。どういう主のお約束を思い出すでしょうか。やはり、 「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)という主イエスのことばです。だから私たちは、やはり教会の集いを大切にしましょう。たしかに私たちはイエス様に罪をゆるしていただいたとはいえ、罪ある者たちであり、愉快なことばかりではないかもしれません。牧師も不十分です。でも、主イエスが、こんな小さな欠けある私たちのことをも、ご自分の民、その神の家族として、愛していてくださることは事実なのです。

2.復活の主のおからだ

 第二番目に私たちが、主イエスの復活の記事から読み取るべき大切なことは、主イエスの復活のからだについてのことです。弟子たちのところを訪れたのは、イエス様の幽霊ではありません。そのおからだは、透き通った霊のようなものではなくて、ほんものでした。もしイエス様が幽霊だったら、「うらめしや。おまえたち、よくもわたしを裏切って逃げたな〜」とでも言って、弟子たちは震え上がったことでしょうが、実際にはイエス様は「シャローム」とおっしゃって、弟子たちは喜んだのです。

「20:19その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20:20そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」

 弟子たちは、目の前のその人がイエス様であるのかどうかを疑ったのです。それで、イエス様は手とわき腹を示しました。まぎれもなく、釘で貫かれた傷跡と、槍で心臓まで深々と突き刺した跡がそこには残っていました。ほんもののイエス様でした。
 ルカ伝の並行記事では、腕まくりをしたり、足を見せたり、さらに魚まで食べて見せたりなさったというふうに記録されています。まぎれもなく、弟子たちの中に現れたのはイエス様でありましたし、しかも、向こうが透き通って見えるようなイエス様ではなくて、ほんもののからだをもっていらっしゃるイエス様でした。
 実は、古代からグノーシス主義の異端というものがあって、彼らはイエス様のからだのよみがえりを信じることができないので、霊だけがよみがえったのだと教えていたのです。グノーシス主義の考え方の根本は、世界は霊と物質という二つの要素から成っているということでした。霊の方はすぐれていてずっと不滅だけれども、物質のほうは劣っていて朽ちてしまうのだという考えました。人間は、霊魂と肉体から成っていて、霊魂はすぐれていて不滅だが、肉体は朽ちてしまうくだらないものだという考え方で霊肉二元論といいます。こういうものの見方は古代ギリシャにもともとあったのです。そういうギリシャ風の考え方の枠組み、色眼鏡でイエス様の復活の出来事を勝手に解釈したのがグノーシス主義でした。彼らは復活してきたのは、イエス様の霊だけである、というのです。
 しかし、この見方は間違いです。一つは、復活の朝、イエス様の墓は空っぽだったからです。もし霊だけが尊く、霊だけが不滅ならば、お墓にはイエス様の亡骸は残されたはずですが、お墓のイエス様のからだはなくなっていました。また、この弟子たちに対して現れた場面でも、イエス様はご自分の手とわきばらを示して、まぎれもなく本物のからだを持っていますよと示しておられます。イエス様は、まぎれもなく霊とからだをもって復活されたのです。
 霊は尊く、肉体は卑しいという教えは聖書的な教えではありません。神様は、私たちに霊・魂とともにからだをも与えてくださったからです。霊は尊く、肉体は卑しいという考え方から、次のような誤った生き方が出てきます。霊は尊く、肉体は卑しいものであるから、肉体を痛めつけて、霊を解放しようということで、さまざまな肉体を痛めつける修行をするのです。また、正反対に霊と肉体とはそもそも別々のものであるから、いったんそのことを悟れば、逆に肉体をどんなに汚しても霊は汚れないという奇妙な考え方を持つ人々がいます。そういう人々は肉欲的な生き方をして、「しかし、私の魂はまったく清浄である」といいます。
 神様は私たちに霊と肉体の両方を与えてくださいました。ですから、私たちは霊を大事にしますが、同時に神様がくださったからだをも正しく管理し清く保つ生き方をすべきなのです。たしかに、私たちのからだはまだ復活のからだではありませんから、罪の性質がまとわりついているので不都合はありますけれども、それでも主が私たちに託されたからだですので、病気にならないように配慮して健康な食事をすることなども大切なことです。
 私たちは、やがてそれぞれ死を迎えるとき、肉体は滅びてとりあえず霊の状態で、イエス様のもとに喜びのうちに過ごすことになります。そして、終わりの日には新しいからだを与えられて、復活して新しい天と新しい地に住むことになるのです。

3.実証主義者の信仰告白

 さて、次の復活の日までの間、きっとトマスはひがんだ気持ちですごしていたのだと思います。今、私たちは一週間後にはイエス様がまた現れてくださるから大丈夫だと知っていますが、当時のトマスとしては、たった一度限りの復活の主との出会いの機会を逃してしまったのかもしれないと思っていたでしょう。だから、暗い気持ちでイエス様に訴えるような祈りをしながら過ごしたことでしょう。
 しかし、幸いなことに、主イエスは一週間後、つまり、週の初めの日にまた弟子たちの中に現われてくださいました。今度はトマスは一人ぼっち別のところにはおらず、ちゃんと集いの中にいたのです。

「20:26八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 20:27それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
 
 このとき、トマスはイエス様の神性について、もっとも明確な記念すべき信仰告白をしました。「わが主よ、わが神よ」。

 「私の主。私の神。」ヨハネ福音書は、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」という書き出して始まりました。そして、その結びともいうべきこのところで、結論として、トマスはイエス様に向かって「私の主、私の神」と告白したのです。
 使徒ペテロは、ピリポ・カイザリヤで、イエス様に対して「あなたは生ける神の御子キリストです。」と告白しました。それもすばらしい信仰告白でした。イエス様が神様の御子である以上、イエス様が神であられることを意味していると解されます。しかし、「イエスは神の子ではあっても、神ではない」といって異なる教えを説く人々がいないわけではありません。
 しかし、「見なければ、さわらなければ信じない」という実証主義者トマスがまったく否定しようがないほど明確に、イエス様に向かって「私の主。私の神」と告白したのでした。この明確な信仰告白は、どれほど多くのキリストが神であられることに疑問を抱きまよう人々を、その暗闇から救い出してきたことでしょうか。
  疑い迷ったトマスが復活のイエス様を目の当たりにしたことによって、イエス様を「私の主、私の神」と認めたことによって、迷いの中にある人たちに確信を与えてきたということができましょう。 この後、トマスはシリヤからインドとアッシリヤに復活のイエス・キリストを伝えてゆきました。トマスは、今日でもアッシリヤ東方教会における初代の監督として尊敬されています。疑い迷ったトマスですが、復活のイエス様に出会ったことによって、新しい人に作りかえられて、イエス様によって、キリストの福音とキリストの教会の前進のために大いに用いられたのでした。

結び
 私たちは小さな群れですが、同じ復活の主イエスに生かされているものとして、主の復活を明確に信じて、主の福音のあかしのために前進してまいりましょう。家庭集会、通信小海、そして私たち一人一人の存在が、主イエスは生きておられることの証言として用いられますように。


 イースター礼拝のあと、みんなで山にピクニックに行きました。