苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主はよみがえられました!


「主はよみがえられました!」
「まことに主はよみがえられました!」
 私どもの小海キリスト教会では、復活日の朝はこのようにあいさつをすることになっている。私がかつてご一緒に奉仕させていただいた、M.ジェイコブセン宣教師が教えてくださったイースターの朝の習慣である。
 「人類の最後の敵」である死に、主イエスは勝利を獲得してよみがえられた。このところ、キリスト者の神の前における社会的責任と考えて地震原発問題を扱って書き続けている。たしかに、原発地震は深刻な問題である。では原発地震がなぜ深刻かといえば、それが死をもたらすからにほかならない。
 しかし、死に対する勝利のかぎを持っているキリスト者は、「究極的には」問題ないのである。考えてみれば、私たちはどのような死に方であれ、死ぬことに変わりはない。自分が原発のもたらす禍で死ぬか、交通事故で死ぬか、病床で死ぬか、誰も知らない。ひとりひとりが、死んで神の前に出なければならないことには変わりない。だから「究極的に」(究極的でないこともそれなりに重要なので、限定的に言うが)たいせつなことは、原発でもなければ地震でもない。死をくぐって神の前に出るための備えが、各自できているかどうか、なのである。
 キリストは、私たちに罪と罪のもたらす永遠の死に対する勝利を、私たちにくださった。あの十字架の上で私たちの罪をすべてその身に背負ってくださり、三日目に罪の呪いをすべて解決した証としてよみがえられた。
 私たちにいつどのようなかたちで、肉体の死が訪れるかについては、知らされていないから、明日、どのようなかたちで、神の前に出ることになってもよいように、今日という日に、悔い改めて主イエスへの信仰をたしかなものとしたい。そして、神の前に持ってゆくことができるものは、富でも権力でもこの世の肩書きでもなく、ただ神を愛した証としての、隣人への愛のわざのみであることをわきまえたい。被災地に手を差し伸べることも、脱原発を訴えることも、神を愛し隣人を愛するという目的のためにほかならない。

「死は勝利にのまれてしまった。
 死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
 死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
                  コリント前書15章抜粋