苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

死地に飛び込んで来られた神

Lk15:11−24
2011年3月20日 小海主日礼拝
1.父としての神

 正しい信仰において、第一にたいせつなことは信じる心ではありません。何を信じるか、誰を信じるかということです。私の父は五十才でイエス・キリストを信じて洗礼を受けました。そのとき、父は「自分は生まれてこの方ずっと『信仰とは、何を信じてもいい。信じる心が大切なんだ』と思っていた。けれども、聖書を読むようになってわかったことは、信じる心よりもっと大切なのは、何を誰を信じるかなのだということだ。」と言ったことが印象に残っています。
 「鰯の頭の信心」などと言いますが、鰯の頭を信じたら鰯の頭だけのことしかありません。もしヘンテコナ教祖様を信じたら、とんでもない人生にもなりかねません。誰を信じるか何を信じるかということがまず大切なのです。
 では、聖書は私たちの信じるべき神はどのようなお方であると言っているでしょう。先程お読み頂いた譬えの中では、神様はどのようなお方として描かれているでしょうか。「ある人に息子がふたりあった。」と例えは始まります。神様は父として表現されているのです。 神が父と表現されていることから少なくとも三つのことを知るべきです。

 第一.父がいてこそ子がいる。そのように、神があってこそ人がいるということです。神が人間を造ったのであって、人間が神を造ったのではありません。たしかにこの世には人間が造った神と呼ばれるものがたくさんあります。しかし、まことの神は人間をお造りになった神のみです。
第二.神は唯一あがめるべきお方。基督教は排他的であると言われます。それはそのとおり。しかし、考えて見ればそれは正当な主張です。Kさんが七人の子供をつれて動物園に行った。一人が迷子になってしまいました。「まあいいか、あと六人もいるから」とは言いません。ほんとうの父親ならば、「私こそ父親です」と申し出るでしょう。同様に、まことの神であられるゆえに、「わたしこそまことの神である」と聖書に御自分を現されたのです。
第三.父であるということは、創造主である以上の関係です。創造主として神は私たちに主権をもっています。しかし、父はそれ以上の関係です。つまり、父と子との間には人格的な交流があるのです。聖書によると、神は最初に人を御自分の似姿としてお造りになりました。人格的な存在として造られたのです。私たち人間は神との人格的な交流を祈りにおいて持つことができます。神との愛の交わりに生きることができます。神は、父なるお方です。

2.人間の罪

 次に、息子の姿に人間の現状としての罪をみます。
 「おやじ。俺に財産の分け前をよこせよ。」と息子は言いました。「どうせあんたも間もなく死ぬんだ。死んじまうまえに俺に財産の取り分くれたった良いだろう。」というわけです。なんというふらちなことばでしょうか。弟は何を望んだのでしょう。父親の監督・支配から離れて好きにやってみたいということ、自由ということでしょう。
 弟息子は、父の支配のもとにいることをいやがったのです。父なしで、自分の力、自分の判断でなんでも決めて生きていきたいと思いました。
 しかし、その恩知らずぶりを見よ。こっけいではありませんか。都会に出て飲んだり食ったりしているけれども、それは実の所すべて親掛かりなのです。
 「神にたよるなどめめしい生き方だ」とかつて私は思っていました。しかし、聖書を読むようになってわかったことは「この神に感謝して生きることは人間にとって当然の義務なのだ。」ということでした。いのちを与えすべてのものを与えて下さっている神。これほど神にお世話になっていながら、神に従わず、神に感謝もせず礼拝もせず生きるというのは「自立の人」どころかただの恩知らずにすぎなかったのだということが分かったのです。
 さて息子は、父のもとを去って遠くの大きな町へ行きました。快楽と権力のある都会へと。あとにこの地域では豚を飼っていたとありますから、これは外国です。イスラエルでは豚を食用にしません。彼はなるべく遠く、父親の監視のないところに行きたいと望んだのです。そこで羽を伸ばしたいと思ったのです。弟息子は、ここで湯水のように金を使って、酒と女とばくちに溺れてしまいます。これらは「きばらし」です。まことの創造主である神を離れた人間のたましいは「むなしい」と聖書はいう。中身がないのです。

3.苦難はチャンス

 さて、放蕩息子は湯水のように身代を食いつぶしたら、金と同時に友人もなくなった。金の切れめが縁(円)の切れ目とばかりに、だれもこの息子には近寄らなくなりました。あれは友情でもなんでもありません。彼にちやほやしていたのは、みんなただ酒を飲み、ただでばくちをし、ただで女を買いたかったから、田舎者でお人好しの彼の財布をを利用していた寄生虫にすぎなかったのです。
 人に頼ること、この世のものに頼ることのむなしさを彼は知るべきでした。しかし、人に失望させられるとき、実は、神はあなたを呼んでおられるのです。しかし、放蕩息子はなお「いまさら帰ることができるものか」と、なお意地を張って父のもとに帰ろうとはしませんでした。
 さらに飢饉が来ました。父に帰るべきなのに、彼は豚の飼い主に身を寄せた。なお彼のプライド「俺の俺による俺のための人生」がじゃまをしたのでしょうか。しかし、豚のえささえも食べさせてもらえなかった時、ついに彼は「我に帰った!」とあります。
 私たちの人生のなかでさまざまな困難な状況に置かれることがあります。今まで、確かだと思っていたことが脆くも崩れ去ってしまうことがあります。なんのために自分は生きていけばよいのかと自問しないではいられないような時というのがあるものです。それは神があなたを呼んでいらっしゃるときです。「さあ、帰って来い」と呼んでいらっしゃるのです。苦難、それはチャンスです。
「主を呼び求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに呼び求めよ。」
 人生のなかで神が親しく臨んでくださるのは、そう何度もあるわけではありません。近くにおられるうちに呼び求めるべきです。
 豚の小便と垢にまみれた息子は、遂に我に返りました。「父のもとには雇い人が大勢いて食べたい者を食べている。それなのに息子である自分はこんなありさまだ。ああ、私は天に対して罪を犯し、あなたに対しても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格は私にはありません、雇い人の一人にしてください。」
 こうして息子はボロをまとい、裸足でよろよろと故郷への道をたどり始めるのです。

4.神は走り寄る

 さて、父親は息子が家出してからというもの、地平線に続く道を見ていました。
「あの子はいつ帰ってくるか、いつ帰ってくるか」と待ちわびていました。
畑に出てクワを取る時も、地平線を見ています。家に家食事をする時も、窓から地平線を見ています。夜床につくときも玄関の鍵は開けたままです。そして、風が窓をたたくと、そのたびに息子だろうかと老いた体を起こしては、確かめるのです。
 一年たち、二年経ちました。三年たち、四年たちました。・・・そしていったい何年たったのでしょう。父の髪には白いものが目立つようになりました。
ある日、地平線につながる道に人影がちらりと見えました。老いてかすんだ目ですが、一番最初に見えたのです。乞食のようにぼろをまとっています。何か月も風呂に入っていないので色も黒くなっています。髪はボウボウです。靴も履いていません。が、たしかにあの次男坊です。それとわかると、父は走り出しました。古代東洋では威厳ある父親は走らないものだったそうです。威厳ある者が走るのは不名誉なことでした。しかし、この父親は名誉も威厳もかなぐりすてて、息子にかけよります。
 息子は「お父さんだ。そうだ、なんておわびするんだっけ」と考えてきたあいさつの言葉を言おうとします。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。・・・」しかし、父親はその言葉を最後までいわせません。ガバと抱き寄せて、赤にまみれ豚の小便で臭くなった息子に、何度も何度も接吻するのです。さらに、一番良い着物を着せ、靴を履かせ、そして指輪をはめさせました。「雇い人ではない。お前は私の子だ」というあかしの指輪です。そして牛をほふってのお祝いです。
 これが神の愛です。神の愛は走り寄る愛です。自分の名誉も栄光をかなぐり捨てて、罪で臭く垢まみれになっている私たちを抱き寄せ、接吻してやまない愛です。この神の愛は、歴史の中に現れた神の遜りを意味しています。
 3月11日大きな地震があり、教団理事会は緊急で地震対策会議を開きました。その席上、若いÅ理事は現地に赴く救援チームを編成して派遣すべきである、自分が行くと発言しました。理事会は迷いました。怖がりの私は恐れを感じました。そのとき、ここ三日間のうちに震度7の余震がある可能性が70パーセントであるとニュースが言っており、福島第一、第二原発は暴走中で、ひとつは爆発というニュースが刻一刻と入っていたからです。しかし、A牧師は困った兄弟姉妹がそこにいる以上助けに行くのがあたりまえだというのでした。理事会は派遣を決断しました。ただちに関東圏の諸教会に救援物資の要請がなされ、土浦に集められ、A理事とY理事が深夜に出発しました。途中でもう一つ爆発、職員退避のニュースもあった時には退避せよとメールし、再トライして福島の先生と会って帰って来られました。・・・午前二時半までずっと起きていて、原発のニュースと地震のニュースに耳を傾けながら、メールをやりとりしながらの心臓が苦しくなるような派遣でした。
 神の御子イエス様は、あのもっとも美しく、もっとも安全で、もっともきよい天国を捨てて、このもっとも危険な地に人となってきてくださいました。しかも、イエス様がこの世に来られるにあたっては、百パーセント死ぬことが、しかも、十字架に磔にされて殺されることがはっきりとわかっていたのです。それでもイエス様はこの死地に飛び込んで来てくださいました。そして実際に十字架につけられて辱められ、苦しみと痛みと悲しみのどん底に身を置いて、私たちの罪をあがなって、私たちを救ってくださったのです。なぜか?それはイエス様が罪の中に滅びている私たちをはらわたが痛むほどに「かわいそうに思って」くださったからです。イエス様が愛の神でいらっしゃるからです。ああ、私には愛がないなあと思いました。あのイエス様を知っているのに、私は自分の身の安全ばかりを考えている自己中心の罪人だと。幸い、A牧師とY牧師は無事にもどって来ました。そしてケロッとしていました。まったくかないませんね。A先生のお父さんは私の恩師ですが、先生はしばしば、「捨て身で神様に賭けなさい」とおっしゃいましたが、その息子もそういう神の器です。
 神の愛とは、安全圏からクモの糸を垂らして待っているようなものではなく、私たちを滅びから救うために最も安全な天国をあえて捨てて、この死地にあえて飛び込んでこられた、そういう愛です。

結び.救いを得るためになにを?・・・・息子を見よ!

 さて、ではどのようにして私たちはこの救いを得るのでしょうか。なにか厳しい修行をしなければならないのでしょうか。大枚のお布施をしなければならないのでしょうか。修行や布施の報酬として、救いというものがあるのでしょうか。
 あの息子を見ましょう。あの息子は、故郷に錦を飾ったわけではない。ただ、自分の罪を認めて父のもとに帰ったのです。すると、父が迎えてくれたのでした。
 「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23
 キリスト教信仰を何か、悪人が善人になることであると誤解している人があります。悔い改めよ」とは、悪人が心を入れ替えてまっとうな人間になることだ、と。
 救いを得るために、何か良い行いをして罪滅ぼしをすることは必要ありません。いや、そんなことができるならば、キリストは十字架にかかられる必要はなかったのです。キリストが十字架にかかられたのは、私たちが自分では自分の罪の償いができないからです。悔い改めとはなにか。悔い改めとは、神様に白旗をかかげることなのだ。私は罪があります、すみません。神の前に敗北することは、人生に勝利することです。
 悔い改めなさい。神に白旗をかかげなさい。神の御前に己の罪を認めて、救い主キリストにすがることです。
「だれでも主イエスの御名を呼ぶ者は救われる」

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