苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近現代教会史9  福音派 


今朝、少し積雪がありました。三寒四温といいますが、こういうふうにしながら小海の春はやってきます。


1.エキュメニズム派と区別して

 福音的とか福音派あるいは福音主義ということばは、いろいろな意味で用いられる。宗教改革時代においては、信仰による義認の教理と、聖書を教会における唯一の権威とする立場、つまり、プロテスタント教会福音主義の教会と呼ばれた。今日でもヨーロッパやラテン・アメリカで福音主義教会といえば、ローマ教会と区別してプロテスタント教会のことを意味する。日本では日本基督教団を始めとする「メインライン(エキュメニズム派)」の中で福音主義といえば、バルト神学のようなキリスト理解を意味する。バルトは自由主義神学に反旗を翻して、聖書釈義を強調し、神の主権を高調し、救いは神から人に向かって垂直に来ると主張した、あの「神のことばの神学」である。
 本稿で「福音派Evangelicals」という用語は、一般に、上記メインライン(エキュメニズム派)に対する区別として用いている。エキュメニズムというのは、教会の再一致をめざす世界教会運動を展開している立場のことで、具体的には世界教会協議会(WCC)がそれを実践している。日本基督教団日本聖公会やバプテスト連盟などがそのメンバーである。教会の再一致というとき、彼らが、当面、念頭に置いているのはプロテスタント教会とローマ教会であるが、東方正教会も視野に入っている。『新共同訳聖書』はプロテスタントとローマ教会の学者による共同の訳業である。戦後、プロテスタントのメインラインを自認してきたのは、このエキュメニズム派の教会である。エキュメニズム派は、聖書の逐語霊感説や米国の宗教原理主義と結びつけて、ある程度の軽蔑をこめて福音派のことをファンダメンタリストfundamentalistと呼ぶことが多い。
 主イエスは弟子たちが一つであることを望み、また、そのように祈られたのだから、教会が組織としても一致することはもちろん望ましいことである。それにもかかわらず、福音派エキュメニズム派とは一線を画してきた。それで福音派は「分離主義者」であると非難されることもあった。福音派が彼らと一線を画さざるをえなかったのは、エキュメニズム派が聖書の根本的真理から逸脱している自由主義神学の立場の人々をも多く含んでいるからである。
 教会の一致は重要なことであるが、イエスの神性などの根本的真理を犠牲にしてまで一つの組織となることを、福音派の諸教会はよしとしなかった。たしかに聖書は 「4:3平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。 4:4からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。 4:5主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。 4:6すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。」「 4:13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」(エペソ4章口語訳)とある。福音派は、信仰の一致、神の御子に関する知識の一致を犠牲にしてまで、組織を一致させることを望まなかった。二千年を経たキリスト教会のうちには、信仰のタイプの多様性があることは当然であるが、根本的な教理の一致がないとすれば、その組織の一致は意味のないことである。メインラインの教職のうちには、イエスが処女から生まれたことも、神の御子キリストであることも信じない牧師もいる。福音派から見れば彼らはそもそもクリスチャンではないので、一致のしようがない。

2.福音派の多様性と一致

 福音派のなかにも多様性がある。たとえば、ホィートン大学のロバート・ウェーバー福音派に含まれる十四の系統を挙げている。ファンダメンタリスト福音主義・ディスペンセーション的福音主義(ダラス神学校、ムーディ聖書学院)、保守的福音主義(ホィートン大学、トリニティ神学校、ゴードンコンウェル神学校、ビリーグラハム)、無教派的福音主義、改革派系の福音主義(カルビン神学校、ウェストミンスター神学校など)、アナバプテスト系福音主義、ウェスレアン系福音主義(アズベリー神学校など)、ホーリネス系の福音主義(ナザレン教会)、ペンテコステ福音主義(神の教会、アッセンブリー)、カリスマ系福音主義、黒人福音主義、進歩的福音主義、急進的福音主義、主流派教会内の福音主義である(宇田進『福音主義キリスト教とは何か』より)。
 しかし、こうした多様性にもかかわらず、福音派を「派」と呼ぶ以上、共通点があるわけである。泉田昭は「われわれが今日福音主義とか福音派というとき、信仰的自由主義に対して福音主義、エキュメニカルなグループに対して福音派という表現を使っている。つまり、聖書は誤りのない神のことばであると信じ、基本的教理を保持し、救霊と伝道に励んでいる者たちのことである。」(『はばたく日本の福音派』)要を得た説明である。福音派は神学的には自由主義に対して保守主義、教派的にはエキュメニズムとは組しないのである。そして、福音派の実践的特徴は伝道熱心である。
 ここにいう基本的教理とは一九一○年に米国の北長老教会の総会が福音的キリスト教にとってファンダメンタルなものとして挙げた五点と一致すると考えてよいだろう。それは以下のとおり。
1.聖書の霊感と無謬性
2.キリストの処女降誕
3.キリストの身代わりの贖罪
4.キリストのからだの復活
5.奇蹟の真実性
 また福音派のメンタリティ的・実践的な面での一致点は、「義認を強調し、かつ経験した者、そして聖書の権威を強く奉じる者である。すなわち、人格的・個人的な回心と厳格な道徳生活、そして聖書にのみ信仰と行動の導きを求めることの二つの特徴が強く見られ、そうした特徴を持つ限りでのキリスト教信仰を広め伝えようとする熱意をもっている。」と言われるとおりである(Gabriel Fackre)。

3.福音派のルーツ

 福音派の神学的ルーツと実践的霊的なルーツは、宗教改革と敬虔主義運動にあると見るのが適当であると思う。宗教改革者たちの根本的主張はなんだったか。「聖書のみ」「信仰のみ」つまり、聖書が教会の拠って立つ唯一絶対の権威であるという信仰と、信仰によって義とされるという教理である。そういう意味では、聖書の権威を否定し、イエスを道徳の教師とする行為主義の自由主義神学は、宗教改革の神学からは大きく逸脱してしまっている。正反対の方向にむかっていると言ってもよい。そんな自由主義神学を背景とするエキュメニズム派が「主流」を名乗るというのは、よく考えると珍妙な現象ではある。実際は、聖書信仰と信仰義認を主張する福音派こそ宗教改革の流れをまともに引いている主流なのである。
 とはいえ、教会の歴史を見てくると、どの時代にあっても「我こそは主流なり正統派なり」と傲慢になったとき、教会はしばしば過ちを犯してきた。主イエスがペテロを戒めたように、後の者が先になり、先の者が後になるのだから、最近、旗色の悪いエキュメニズム派を尻目に、今度は福音派が「我こそは主流なり」などと誇ることは、控える方がよい。主イエスご自身、当時の主流派であったユダヤ教の大祭司以下の人々に排斥され、殺されたのである。教会はこの世に主流と呼ばれようと、傍流と呼ばれようとかまわない。要は、主イエスに従うことである。
 福音派のもうひとつのルーツは、敬虔主義運動である。宗教改革時代にはまだ、印刷技術上の問題も識字率の低さもあって、万人祭司という理念はともかく、実際に一般信徒が一人一人聖書を読むというわけにはいかなかった。しかし、敬虔主義運動において、信徒一人一人が聖書を読み、祈祷書によらず自分のことばで祈りをすることができるようになった。いわゆるディボーションである。また、週に一度は祈祷会に参加するということもなされるようになった。敬虔主義運動を学んだ時にも言ったように、今日の福音派の聖書通読や、個人的・人格的な神体験という信仰のありかたのルーツは敬虔主義運動にあると言ってよい。ここでいう敬虔主義とは、狭くドイツ敬虔主義のみを意味するのではなく、英国のピューリタニズムやウェスレー主義、あるいは、米国の信仰覚醒運動をも含めて言っている。
 福音派の伝道への熱心も、敬虔主義から受けた遺産である。宗教改革の神学と、その集大成を志した十七世紀のプロテスタント正統主義の体系には、伝道の神学も救霊の情熱も見られない。あのプロテスタント諸信条中、最も完備された『ウェストミンスター信仰告白』にさえ、伝道・世界宣教は主題的には取り上げられていない。福音派は、ドイツから北欧にかけての敬虔主義運動、英国のジョン・ウェスレーのメソジスト運動、米国の信仰覚醒運動などから、その救霊の情熱を受けたのである。


4.福音派の課題
(1)社会的責任
 かつて教会の中に「社会派」と、「教会派(あるいは伝道派)」という呼び名があった。社会派というのは、自由主義者が社会的救済運動に励んでいたことを指している。社会派は、社会改革を神の国の福音の宣教と同一視した。社会派にとってのイエスは愛の教師であり、社会革命家なのである。それに対して教会派(伝道派)は、政治とか社会的なことは教会のかかわるべきことではないとした。福音派は、教会派・伝道派であった。
 けれども、福音派のルーツは社会的責任を無視して伝道のみに励んだわけではなかった。たとえば、産業革命と資本主義による貧富の差のはなはだしかった「最暗黒の英国」社会を、もっとも有効に改革したのはジョン・ウェスレーのメソジスト運動にほかならなかった。彼は、イエス・キリストの十字架の福音を語ると同時に、キリストを受け入れた人々の間に生活共同体を作らせることを進めることによって、救霊とともに社会的救済をももっとも効果的に行ったのである。
 福音派が社会改革から手を引くことになったのは、共産主義の勃興が背景にあったといわれる。ここ二十年ほどの間に共産主義国家が解体するまで、20世紀の間、社会を改革する現実的理論は共産主義の専売特許のように見られていた。社会改革になど手を出すと、共産主義者になってしまうという懸念が、教会のなかにいだかれていたし、事実、日本でも共産主義に同調して活動した赤岩栄のような牧師もいた 。共産主義国家がつぎつぎに崩壊した後の現代でも、南米などの第三諸国における社会的不正・不平等に対する教会の闘争は、「解放の神学」の名のもとになされているが、内容的にかつての自由主義神学の社会福音と通じるものである。
 しかし、1974年のローザンヌ世界伝道会議に採択された『ローザンヌ誓約』以来、福音派教会は公的に、教会には伝道と社会的責任のふたつの責任があることを確認した。 「われわれは、神がすべての人の創造者であるとともに、審判者でもあられることを表明する。それゆえに、われわれは、人間社会全体における正義と和解のための、また、あらゆる種類の抑圧から人間解放のための、主の御旨に責任を持って関与すべきである。(中略)われわれは、これらの点をなおざりにしたり、時には伝道と社会的責任とを互いに相容れないものとみなしてきたことに対し、ざんげの意を表明する。たしかに人間同志の和解即伝道ではない。政治的解放即救いではない。しかしながら、われわれは、伝道と社会的政治的参与の両方が、ともにキリスト者の務めであることを表明する。(中略)行いのない信仰は死んだものである。」
 福音派は社会的参与と福音宣教を区別し、福音宣教の優先性を確認しつつも、神がキリスト者に社会的責任をもお与えになっていることを確認したのである。近年の日本で特筆すべきこととしては、天皇の代替わりの儀式、大嘗祭において、従来、天皇問題をタブー視していた福音派諸教会もその本質が偶像崇拝問題であることから、立ち上がって、これに反対声明を出したことであった。
 社会的参与の課題としては、上記のような国家主義の問題だけでなく、環境問題、生命倫理の問題などさまざまである。

(2)ペンテコステ、カリスマの課題
 福音派の、今日のもうひとつの課題は、ペンテコステ、カリスマそして第三の波という聖霊主義運動である。欧米の神学者たちは、これを福音派内の動きとして観察しており、大局的には福音派内の多様性として見ているのであるが、日本では福音派聖霊派とが分裂傾向にある。聖書を揺るがぬ土台として、相互理解と一致協力の道をさぐるべきではないだろうか。

(3)メインラインの教会とのかかわりかた
 メインラインと呼ばれているWCC系、日本ではNCC系の教会のなかにも、一部聖書に固着するグループがあることも事実である。たしかにWCC系の教会の牧師たちのうちには、イエスが神の御子であることを信じていない人々がいるし、復活の事実も信じていない人々、つまり、伝統的な意味ではキリスト者でない人々が牧師や神学者であったりするという不思議な現象がある。
 けれども、確かに神の受肉、受難による贖罪、復活を信じている人々がWCCの中にもいるのも一方の事実である。大雑把な言い方だが、バルト的な立場の人々の場合、バルト同様、聖書釈義に対する熱心さはむしろ聖書主義を唱える福音派よりも勝っているということさえもありうる。しかし、ほとんどの著述や説教を読むかぎりは聖書的と思える著名な牧師の説教でも、使徒信条の「よみに降り」の解釈を聞けばバルトと同じように万人救済論であるから、やはり問題があるということがあったりする。こうした人々とは、お互いの立場の違いを認識しながら理解を深めるという作業は重要なことであろうと思われる。

(4)教会と国家
  日本の福音派についていえば、宗教改革と敬虔主義運動の流れは、ほとんど米国経由で流れ込んできた。米国経由のキリスト教には、西欧におけるキリスト教と比べるときにいくつもの特徴があるだろうが、ここでは「教会と国家」にかんする課題を挙げておきたい。米国と西欧の国家観の違いは、「自由教会」ということばの意味内容に典型的に現われている。
 西欧における「自由教会」とは国教会からの自由を意味している。国教会の束縛から解放されて、みことばと自らの良心にしたがって、神を礼拝する自由を西欧近世・近代の教会は追求した。イングランドピューリタンたち、スコットランドプレスビテリアン(長老派)、フランスのユグノーたちの自由教会の「自由」とは、国教会からの自由である。
 米国の教会は、国教会の束縛からの解放を求めた人々によって始められたのであるから、本来的には彼らの「自由教会」も国教会の束縛からの自由を意味するはずである。だから、彼らがイギリスから独立してこの新大陸に国家を作るにあたっては、この地には国教会を作ろうとはしなかったし、今日にいたるまで国教は存在しない。だから、米国における「自由教会」はその中身が不明瞭になっている。そもそも自由というものは、「〜からの自由」であるからである。本来「国教会」が入るべき「〜」の箇所に入れるものが無くなってしまったのである。そんなわけで米国における「自由教会」は、本来的な意味での「国教会から自由な教会」という意味を失って、個々の地域教会が自治権を持っているという意味に入れ替わっていわゆる会衆派・単立主義の意味で使われたり、あるいは伝統とか格式から解放されているという意味で自由教会と言ったり、あるいは国教会のために徴収される税から解放されて、自発的に献金するということで、無料・自発的という意味でのfreeといったりする。
 国教会と対峙しなければならないという状況がそもそも欠けているので、米国の教会とくに福音派には一般に国家に対する警戒感がなく、むしろ、素朴に「米国こそは神の国」であるという考え方を持つ人々が多い。だから教会堂内に星条旗を安置することや、国歌「星条旗」や「God bless America」が歌われることにも抵抗がない。わが国では、たとえ他の場所で日の丸・君が代に敬意を示すキリスト者であっても、三位一体の神の御名だけがあがめられるべき教会堂内に日の丸を掲げられたり、礼拝で君が代が歌うことは到底容認できないであろう。そこに偶像崇拝を認めるからである。米国では国教会は法的には存在しないのであるが、事実上、キリスト教が国教会的な位置を占めている。つまり、米国では、フランス革命の予言者ルソーが『社会契約論』(4:8)で言った「市民宗教」としての位置をキリスト教会が占めているのである。その醜悪な現われが、ブッシュ・ジュニア大統領のイラク戦争開戦における言動であり、米国福音派の動きであった。
 こうした米国を経由したキリスト教を受容した日本の教会は、「教会と国家」というものの見方そのものが欠けているかとても弱いのではないかと思われる。だから「米国のようにキリスト教がメジャーを占めるようになれば、すべてがうまく行く」というふうな安易な考え方をする人々がいる。聖書的にそして歴史的に見れば、事柄は、それほど簡単ではない。キリスト教会が市民宗教や黙示録13章の第二の獣にならないで、地の塩として世界の光としての任務を果たし続けるためには、聖書と歴史とにしっかりと学ぶ必要がある。