苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

トンチンカンな検察

 2月24日、地検特捜部の取調べの全面可視化の求めに対して、検察は現場検察官の裁量で一部分のみ録音録画するという回答を出したと報道されている。検察はこの可視化の意図が、まったくわかっていないらしい。全面可視化を求めているのは、検察官が自分たちに都合の悪いところは隠して、自分たちに都合の良いことだけを検察調書に書くことを防ぐ為であるのだから、これは全面的に可視化しなければ何の意味もないのである。
 経験者が口をそろえて証言するように、現場の検察官が、取調べに際して、被告を罵倒したり恫喝したり、嘘をついたり、椅子を蹴飛ばしたり、被告の目の前にペンを突きつけたり、被告に土下座させたりして・・・つまりけがはしないようにたくみに拷問をしている場面は可視化せず、さんざん恫喝して被告を憔悴させた挙句、被告が耐えられなくなって苦し紛れに泣きながら「わたしがやりました」と「告白した場面」だけ録音・録画して裁判資料として提出したならば、今までよりももっと不正確な証拠が裁判に出されるだけのことではないか。
 村木さんの冤罪事件で証拠隠滅にかかわった検察官の上司が、「私は検察組織のためにいのちがけでやってきたので、間違ったことはなにもしていない。」という趣旨の発言をしていた。その発言自体が大間違いである。国民は検察官に「検察組織を防衛してくれ」「検察の面子を守ってくれ」などとは頼んではいない。国民は、検察官に、事件について客観的に「白は白、黒は黒、わからないことはわからない」とはっきりさせてくれとその任務を委託しているのであって、検察組織を守ってくれなどと頼んではいない。幹部がこんなことを公言するところを見ると、検察という組織は、根本的に自己の存在目的を取り違えている。だから、全面可視化についてもトンチンカンな対応をしてくるのだろう。

 しかし、検察だけでなく組織というものは、えてしてそれ自体の存続が目的化することが起りがちなものである。常に、本来なんのための組織であるのかという原点を確認する必要がある。それは、教会の歴史を見ても同じことである。主イエスはパリサイ人、律法学者に言われた。
「あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している。」(マルコ7:8口語訳)

  八ヶ岳。ヤッホーの湯の駐車場から。