苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「霊のいけにえをささげるために」

            1ペテロ2:4-8
         2011年2月22日 宣教区代表者会議 開会礼拝説教
                於 川崎市 招待キリスト教

「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。聖書にこう書いてある、
『見よ、わたしはシオンに、
選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。
それにより頼む者は、
決して、失望に終ることがない』。
 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの』、 また『つまずきの石、妨げの岩』である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。」(1ペテロ2:4-8口語訳)

1. 主は生ける石

 聖書はしばしばキリストを石や岩に譬えています。シナイの荒野を行くモーセイスラエルの民についてきて、モーセの杖によって水を出した岩がキリストであったとあります。「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」(1コリント10:4)また、ダニエルの巨大な像の幻によれば、四つの大帝国の盛衰の後に出現する最後の第五の帝国を打ち壊して、全土に満ちる大きな山となる石がキリストです(ダニエル2:35)。
 イエスご自身、ぶどう園の譬えのあと、ご自分を石に譬えて(マルコ12:5,6)、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」と、詩篇118篇を引用なさいました。石造りの家を造る棟梁は、「この石は土台に、この石は柱石に、この石はアーチの一部に・・・」とそれぞれの石の大きさかたちによって配置して行きます。けれども、棟梁が「どうしても使い道のない石だ」とみなすと、その石を捨ててしまいます。
 ここでイメージされている「神の家」は神殿と礼拝共同体としての神の民を意味しています。そして、ここで「家を建てる者たち」と譬えられているのは、イスラエルの祭司や長老たちです。祭司や長老たちは、イエスユダヤの礼拝共同体には役に立たず、危険だとみなしてエルサレム城外のゴルゴタの丘に捨ててしまったのです。ところが、神がなさることは不思議です。ユダヤ教の指導者たちが捨てたイエスが、新しい時代に建てられる神の家つまり新約の教会の礎石となられたのです。

 なぜ祭司・長老たち、家を建てる者たちの目には、主イエスは役に立たたない石にしか見えなかったのでしょうか。彼らは、当時、宗教経営・神殿運営に成功していると自負していました。当時の神の家とはヘロデ大王が造った荘厳なエルサレム神殿であり、エルサレムは過越し祭りをはじめ、大きな祭りの時ともなれば、巡礼たちであふれて、エルサレム城内に宿をとれない多くの人々は城壁の外にテント村を作るほどでました。また、ヘロデ神殿は目を見張るばかりにすばらしく、儀式は荘厳に行われていました。主の弟子の一人もヘロデ神殿について「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」(マルコ13:1)と言っています。また祭司たちは知恵を尽くしてローマ帝国の権力ともうまく渡り合って、神殿経営は相当の成功を治めていたのです。
 さらにいえば、彼らは、当時のユダヤ教会のパリサイ派たちは海と陸を飛び越えて一人の改宗者をえようとしたほどに、異邦人宣教にも熱心でしたから(マタイ23:15)、エルサレム神殿の異邦人の庭には異邦人改宗者たちも大勢集まっていたのです。ところが、異邦人改宗者が神殿内の異邦人の庭に来て見ると、そこではいけにえ用の牛や羊や鳩たちが神殿内特別価格で売り買いされ、献金用に用いる貨幣はそれ専用のものとして、ローマ帝国貨幣と両替させたので両替商たちが繁盛していました。神殿経営をしている祭司たちが、こうした商売人の上前をはねてもうけていたわけです。エルサレムにやってきた異邦人礼拝者たちは、異教の神社仏閣の祭りのありさまと変わらないエルサレム神殿ありさまに失望したのでした。そして、「ゲヘナの子」となってしまったのです。
 たしかに神殿礼拝は経済的・数量的には栄えていました。けれども、主イエスの目からご覧になると、それは葉ばかり繁って実のならないイチジクにすぎませんでした。彼らは、神殿経営には成功していましたが、悔い改めの実も愛と誠実の実も結んでいなかったからです。5節のことばで言い換えると、そこでは「霊のいけにえ」がささげられていなかったのです。ですから、主イエスは激しくお怒りになって「宮きよめ」を行ないました。
 しかし、祭司・長老たちは面目丸つぶれにされたと怒り、心を閉ざして、イエスユダヤの神殿には役に立たない、むしろ危険な石として拒絶してゴルゴタの丘の上に捨ててしまったのでした。

 イエスは大祭司たちの目には、繁盛しているユダヤの神殿にとって役に立たない石でした。しかし、イエスこそ、神の目には、選ばれた、尊い石でした。生ける石でした。父なる神は、永遠の昔に、御子をお選びになり、この御子のうちにすべての聖徒をお選びになりました。父なる神は、イエスをこの世界の歴史の中に送り込んで、新約の時代の神の家の礎石として、お用いになったのです。
 それにしても、「生ける石」という表現は面白い。石というのは、堅固なもの、変わらないものを意味しているのでしょう。漬物石一個あれば100年でも200年でもいいえ1000年でも使えます。ピラミッドを成している石は4000年も変わることがありません。主イエスが石であるというのは、主の変わらない御真実を表現していると言えるでしょう。教会は主イエスという変わることのない堅固な土台の上に建っています。
 しかも、普通の石は無機的なものですが、主イエスはいのちがあるのです。生命があって、神の民を生かすのです。かつてシナイの荒野でイスラエル200万〜300万人が渇いたとき、不思議な石がいのちの水をこんこんと湧きださせて潤したように、生ける石であるキリストは、聖霊のいのちを湧き出させて私たちを潤してくださいます。主イエスは1000年も万年もいや永遠に変わることのない真実なお方、揺るぐことなく信頼にたるお方です。同時に、主イエスは冷たい石のようなお方ではなく、生きていて私たちに御霊の息吹を賜る生ける石なのです。

2. あなたがたも生ける石として御霊の家に

 ペテロはこの手紙を書きながら、ピリポ・カイザリヤで主イエスが自分に向かって「あなたはペテロです」とおっしゃった日のことを思い出しているのでしょう。ご自身、石であり救いの岩であられる主イエスが、自分に対しても「あなたは岩である」と名前を与えてくださったことはなんと光栄なことだろうかと思い起こしているのです。
 主イエスご自身が生ける石であるだけでなく、主を信じる者もまた生ける石としていただけるのです。石のように志操堅固で誠実な者としていただけるのです。そして、生ける石として主イエスのいのちを周囲の人々にも生き生きとあかしすることができるのです。
私たち自身、「生ける石」として歩むためには、どうしなければならないでしょうか。
 第一に、「主のもとに来なさい。」とあります。救われるためには、ただ主イエスの所に来ることです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに着なさい。」と主イエスが言われたとおり。なにか成果を上げて、それを主イエスのところにもって来るというのではなく、まず主イエスのもとに来ることから、キリスト者の人生は始まります。
 第二に、「あなたがたも生ける石として霊の家に築き上げられなさい。」石は道端に一つ落ちていたのではただの石であって、何の役にも立ちません。いや役にたたないどころか、邪魔でさえあります。私が伝道している八ヶ岳の麓にはあちこちに大きな石が落ちています。火山の噴火、あるいは地震の結果天狗岳の東側が山体崩壊して、岩くずなだれとなって大月川、千曲川の谷をかけくだった跡であるというのですが、とにかく牛のようなサイのような、ときには象のような大きな岩が畑の中にあってトラクターの作業の邪魔です。邪魔ですから、お百姓さんたちは冬の農閑期にはこれに発破をかけて砕くということをしています。
 バラバラに落っこちている石というのは、役に立ちません。しかし、もし石が石工の棟梁の目に留まり、置かれるべき場所を得るならば、それは壮大な神殿の一角をなすかけがえのない石になります。役に立たない邪魔な存在が、主イエスのもとに来て、その御手に自分をゆだねて教会の一員として忠実に仕えるならば、今度はかけがえのない存在として用いられることができるのです。
 生ける石として、その主からいただいた命が十分に発揮されるためには、霊の家である教会に建て上げられることが必要なのです。宣教協力の重要性です。

3.神に喜ばれる霊のいけにえをささげるために
 
 では、生ける石としていただいた私たちは、なんのために、礎であるいのちの石であるイエスさまに結ばれて霊の家として築き上げられるのでしょうか。「神に喜ばれる霊のいけにえをささげるため」とみことばは教えています。
 先にお話したように、イエス様の来られた時代、壮麗優美なエルサレム神殿には人があふれて、経営は順調で栄えていました。また異邦人伝道も海山を越えてゆくこともいとわないほどに熱心だったようです。しかし、主の目からご覧になると、エルサレム神殿は葉ばかり繁って実のならないイチジクの木のようでした。悔い改め、誠実、あわれみという結実が欠けていたようです。つまり、「神に喜ばれる霊のいけにえ」がささげられているとは言いがたい状況だったのです。
 「霊の家」、「霊のいけにえ」と訳される、「霊の(プネウマティコス)」とは多くの場合、御霊に満たされた、御霊に属するという意味です。「霊の家」とは御霊にみたされた教会を意味し、「霊の生けにえ」とは御霊によってささげる礼拝、御霊による献身の生活を意味すると言えるでしょう。
 御子イエス・キリストが来られて、家を建てる者たちが捨てた石となって、「御霊の家」である新約の教会の礎石となられたのは、この新しい神の家、神の民に聖霊を注いで、神の民が神の栄光のために自らを捧げる生き方をする民となるためでした。神のご命令は、全身全霊をもって神を愛し、自分自身のように隣人を愛するということですから、この神への愛と隣人への愛という御霊の実がなくて、大神殿や大組織を作り上げて繁盛してもそれは神の目の前ではむなしいことです。

<適用>
 日本同盟基督教団も、新約聖書が「御霊の家」と呼ぶ聖なる公同の教会の一翼を担うものです。そして、宣教区のひとつひとつ、地域教会のひとつひとつ、地域教会の信徒・教職一人一人が生ける石です。キリストに結びついているならば、生ける石です。孤立するのでなく、互いを尊重し合いながら、それぞれの立場で役割を果たしているならば、私たちはキリストの神殿を構成する生ける石なのです。
 私たち日本同盟キリスト教団はフランソン・スピリットに生きるものとして、海山を越えて、日本列島の隅々までくまなくキリストの福音を満たす任務を果たしたいと思います。またアジアと世界に福音を証して行きたいと願います。そのためには、たしかに財政的基盤をより確かなものとして、教団運営が安定することが望ましいことは言うまでもないことです。そうしたことをわきまえた上で申し上げるのですが、私たちが礎石であるキリストに結ばれた目的は、単に教会・教団が大きな神殿になること、巨大な組織となることではありません。大きな組織となって世間の人々の耳目を驚かせることが目的ではありません。
 私たちが宣教に励み、この霊の家である教会・教団を形成する目的は、「霊のいけにえをささげるため」です。信徒・教職一同の生活が、神を愛することと隣人を愛するという豊かな御霊の実りを主におささげすることです。神がキリストの十字架において表わされた、あの愛にこたえて、わたしどもの全生涯をかけて神を愛すること、これこそ私たちの伝道と教会形成の目的です。