苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

平等主義と権威主義

 校長と生徒が同じフロアで行なうフロア形式の卒業式というのは、校長も生徒も平等だという考えからできたかたちだろう。他方、校長を壇上に、生徒たちを壇下のフロアにという形式は、生徒に対する校長の権威が大事だと考えるところからできたかたちだろう。
 では、聖書は権威と平等についてなんと教えるか。聖書は、神の前における人間の平等について教えるが平等主義は教えない。また権威を敬うように教えるが、権威主義は教えない。主義とは、たいてい有害な「中毒」なのである。やみくもに、平等こそすべてだといって権威を呪うのが平等中毒であり、やみくもにに権威が大事なのだとして権威を崇拝しない奴は排除せよと叫ぶのは権威中毒である。平等主義も権威主義も有害無益である。権威中毒者が壇上・壇下に校長と生徒を分けよと主張するならば、それは危険である。平等中毒者がフロア形式でなければ絶対だめだと言って、生徒に校長なんか敬うなと教えるならば、これも危険である。
 校長が生徒も自分も神の前に平等であることをしっかりとわきまえて、日ごろ生徒に仕える心を持ってその務めを果たしているならば、卒業式という改まったときだけは壇上に校長・壇下に生徒と分けられた卒業式のかたちもOKである。もし生徒たちが日ごろから校長を心から尊敬しているならば、みなが同じ床面に立つフロア形式の卒業式もOKである。そういう校長は、もし車椅子の子どもがいれば、フロア形式の卒業式を選択するだろう。
 新約聖書は、奴隷制労働の時代に驚くべきことを教えていた。
 「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。・・・ 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」エペソ6:5,9


   近所のお墓 なんだかかわいい。