苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

炭鉱のカナリヤ 2.11集会


 この冬、信州は雪が少ないなと油断していたら、2月11日は朝からドカ雪になり、今朝12日も降り続いている。昨日午前中、教会の庭と道路とこの丘に登ってくる坂道の雪かきをして、午後、佐久市の野沢福音教会で行なわれた「信教の自由を守る日2.11集会」に出かけた。佐久市も例年にない大雪である。
 お話しくださったのは、東京都の小学校音楽専科教員の佐藤美和子さん。話の前に教育現場でのようすを上映してくださり、佐藤さんがどれほど音楽を通して子どもたちを愛し教育してこられたかということがよくわかった。子どもたちに向ける優しいまなざし、子どもたちの佐藤先生に対する信頼がよく伝わってきた。上映の後、彼女は理性的にそして切々と、ご自分がどれほど音楽を通して子どもたちを育てることを喜びとしてこられたか、音楽教育のすばらしさを話された。
 かつて佐藤さんが教員をしていた都立国立第二小学校では、生徒たちが主体的にものを考え、教師たちに相談しつつ、自分たちの卒業式を実施してきていた。ところが1999年国旗国歌法が施行され、2000年3月の卒業式の二日前、校長先生は都教育委員会の指示にしたがって、日の丸を校舎屋上に掲揚すると宣言した。教師たちは「子どもたちが自分たちでひとつひとつ創意工夫して準備してきた卒業式であるから、子どもたちへの相談もなしにそういうことをするのは困る」と意見を述べたが、校長先生には通じなかった。校長先生は当日7時半に揚げるというので、教員たちは「掲揚するとしても、せめて子どもたちに一言説明してから揚げてください」とお願いしたが、校長先生は当日、子どもが登校する前、朝7時半に掲揚してしまう。登校してきた子どもたちは動揺した。動揺したけれども、式は滞りなく行なわれた。
 式後、子どもたちは「校長先生、なぜ僕たちになにも相談も説明しないで僕たちの卒業式に日の丸を揚げたのですか?」と質問した。校長先生は、「文部省の指導要領に書いてあるからだ」とお答えになった。子どもたちは「ぼくたちは日本国憲法には主権在民と定められているから、卒業式のありかたも自分たちで考えてきたんです。」と泣きながら訴えた。(筆者:なんとすばらしい6年生たち!だが教育委員会は教師たちがそういうふうに煽動しているのだと勘ぐるのだそうである)。だが校長先生は「君たちはそんなことは考えなくても良い。文部省指導要領に書いてあるからだ。」と繰り返すのみだった。教師たちは、子どもたちがこのように校長先生に話しているようすを見聞きしていた。(筆者:この校長先生は、文部省指導要領が憲法よりも上位の法規であると勘違いしていらっしゃるらしい。)そして、子どもたちは言った。「もうぼく達の卒業式は終わってしまいました。校長先生、旗を降ろしてください。」すると校長先生は、子どもたちにわびて、校舎屋上に登って行って、旗を降ろしてくださった。
 ところが、この校長先生は都教育委員会への報告書に「子どもたちが自分に土下座して謝れ」と迫ったと書き、都教育委員会に提出なさった。佐藤さんは言う「・・・もしかすると、小声でそんなことをつぶやく子がいたかもしれませんが、決して、集団で校長先生を怒鳴りつけるようなことを教員たちは見ていません。都教委に呼び出されたとき、そのことを話そうとしたのですが、ただ処分のための取調べを受けただけでした。」(筆者:でもたくさんの6年生に取り囲まれて、校長先生はおびえていて、土下座してでも殴られたくないという気持ちだったのだろう。)
 しかし、産経新聞はそれを取り上げて全国に大々的に報道した。(筆者:その報道には筆者も接していたから、これはやりすぎだ。これではかえって世論は味方してくれないと思った記憶がある。だが、あれは虚報だったのである。)この虚報は国会でも取り上げられ、その後、教員たち13名は処分を受けることになる。佐藤さんは、胸に水色の小さな平和を願うリボンをつけていたことを理由に、「精神的職務専念義務違反」に問われて処分された。式の進行をなんら妨げたわけではない。(筆者:都教育委員会は、子どもたちが将来平和な世界に生きることができるようにと願いつつ卒業式に出ている教員は、職務に専念していないと言って処分するのか。)しかも、07年6月、東京高裁の判事は都教委の処分を支持した。「世情としてはそのように(筆者注:自己の良心を裏切って命令に)したがっている人々が多いと考えられる」と。
 翌翌年、佐藤さんは君が代伴奏をしないことを理由に、介護の必要な両親がいるにもかかわらず他の遠隔の学校に転任を命じられる。(筆者:親孝行の邪魔までする都教育委員会・・・。)が、出血性胃潰瘍で緊急入院となって教職から一時退くことを余儀なくされる。佐藤さんの願いは、「日の丸・君が代に従えないような少数者も、同じように尊ばれる学校・社会でありたい。」ということである。

 ・・・今日は、これ以上、詳細にわたって書く暇がない。続いて筆者のコメント。私は少し怒っていますので、筆が走りすぎ、ことばがすぎるかもしれません。
 音楽を通じて子どもたちを育てるということに命をささげて来た一人の音楽専科の教員。彼女がなにより大切にしてきたものを、暴力的に奪い取った校長先生と都教育委員会の偉い人たちの人間性の欠如と教育者としての不見識に対して憤りを覚える。さらに、その不法行為について憲法判断を避けて、「世情では、みんな良心を裏切ってしたがっているではないか。(この私がその見本だ。)」という内容の判決を出された高等裁判所の判事様には、日本の司法はこの程度の人間が担当していらっしゃるのかと、こちらが情けなくなってしまった。判事とて単なる官僚にすぎないから、自分の出世の妨げになる判決は出したくないのだろうか。まさに裁判官自身が、自己の良心を裏切って、世間体にしたがっている見本になっていらっしゃる。しかし、もし法律に基づいてではなく、世情に基づいて判断をくだすだけならば、裁判官の存在意義はない。八百屋が野菜を売り、牧師が聖書のことばを語るように、裁判官は法律に基づいた判定をするのが仕事であるから。
 「内心において何を信じているかは勝手だが、うわべだけは命令に従え」というようなことを平気で命じることができるような類の人々が、青少年の教育を管理する教育委員会を占めているとは、子どもたちの将来と、この国の将来にとって、なんと不幸なことだろう。都教育委員の偉い人たちは自分たちが、子どもや教員たちにどういう教育を勧めていらっしゃるのか自覚しておられるのだろうか。自分の良心を偽って行動する不誠実な人間を、嘘つきを、卑怯者を、あるいは、自分では何も考えずただ上の言うことを聞いて人を殺すこともできるロボットのような人間を大量生産しているのである。・・・やっぱり佐藤さんに比べると、品のない憤り方をしてしまう筆者である。
 最後に佐藤さんのことば。「つらいと感じる自分の存在に意味があると思えるようになりました。カナリヤが炭鉱の空気の異常をいちはやく察知して危険をしらせるように、強制がもたらす苦しみ、今の学校の危険、この国が進む方向の危険を知らせる役割をになうことができれば幸せです。」
 佐藤さんには、子どもたちのこころを育てる教育者として、これからもご活躍いただきたいと思って、一同、祈って集会を終わった。
 読者のうちには日の丸・君が代になんら違和感のない方も多いと思う。ワールドカップとかオリンピックとかWBCのおかげで、ずいぶん日の丸は普及した。お前はどうなんだと問われれば、筆者自身、佐藤さんが感じるほど強烈には違和感を抱いていない。違和感をもっと抱け、抱くべきだと筆者を批判する知人たちが多いけれども・・・。この件については、また他日書くこともあるだろう。だが、はっきり認識していることは、これらを強制されると、良心が苦しみ、胃から出血してしまう人もいるという事実である。そういう少数者も、同じように尊ばれる学校・社会でありたい。たがいの良心を尊重し、痛みを理解しあうことのできる社会をつくりたい。
 ものすごい雪のせいで、集会は例年になく参加者が少なかったのは残念だった。上田方面のバイパスなど、あちこち雪で不通になってしまったということである。

<注>なお、この記事への反論は、ご自分の実名を明記してくださる方のみコメントを公開します。佐藤美和子さんが実名で声を出しているのですから。筆者については本ブログのプロフィールを参照してください。


雪のなかの旧中込学校(佐久市 明治8年に開校。全国に現存する洋風学校建造物の中で最古。)