苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

一つのモノサシとつまらん世界

 新自由主義経済というのは、要するにカネのある奴が、カネの力に物を言わせてカネの無い人や会社を踏み潰し呑み込んでしまう経済システムである。だから、小さいけれども個性的でおもしろいものは踏み潰されて、結果、全体が等質化されてつまらん世界になってしまうのだ。サンヨー電機がパナソニックに呑み込まれたこともそうだ。佐久平ジャスコとかベイシアとかカインズホームの巨大店舗ができて、周辺地域の商店街の洋品店も、金物屋も、八百屋も、魚屋もみんな閉じて、シャッター通りになってしまったのもそうだ。

 一つの物差しだけでは、均質化したつまらん世界になるというのは、教育の世界も同じである。たとえば、戦前の高等教育の学制は中央集権志向の官立でさえも、江戸時代の幕藩体制下の各地の藩校の伝統や港町や商人の町といった地域の特色のなごりがあって、なかなか面白かった。官僚を志す人間は帝大に進み、教育界を目指すものたちは東京、広島、奈良にあった高師に、経済界での活躍を目指すものたちは東京、神戸、長崎、小樽、彦根、大阪、横浜、山口、高崎など各地の高商に、というふうに、いくつもの道があった。長崎は鎖国時代も国際都市だったし、小樽、神戸、横浜は港町。彦根近江商人が名高く、大阪は日本の台所だった。つまり、戦前の高等教育の制度は八ヶ岳のようにいくつもの峰があった。ところが、戦後、どの高等教育機関も大学に「昇格」した。だが、これは昇格というよりも専門性・個性を失ったこと、均質化でしかない。戦後の学制は、結局、東大を頂点とする富士山のような姿だ。70年代に「偏差値」による大学ランク付けが旺文社によってなされると拍車がかかり、79年から共通一次試験が始まり、センター試験がなされるようになり、ついに私立大学までが、できあいのセンター試験に乗っかるようになってしまった。私学の誇りはどこにいった、とエラソウニ言いたい。

 一つのモノサシでつまらん世界になるのは、車のスタイルもそうだ。今の車のスタイルと、40年前の旧車のスタイルを見たら、それは歴然としている。昔の車のほうが、はるかに個性的なさまざまなスタイルをしていて味がある。今の車がなぜどれもこれも同じ姿をしているかといえば、燃費というモノサシがあるからである。燃費をよくするために空気抵抗を少なくしなければならないから、スラントノーズにし、ライトも四角いガラス箱形にするので、どの車も同じような顔立ちになってしまったのである。

 唯物論なんていうのもそうである。物というモノサシで世界を捉え、物でないものは存在しないと信じ込んでいくと、愛も正義も美も信仰もすべて生物の本能の現われだとか、大脳の中における電気信号にすぎないとか、トラの縞模様はジャングルで身を隠すための擬態以上でも以下でもないという馬鹿馬鹿しい偏見に陥る。

 狭い意味での信仰というモノサシだけでも、世界はつまらなくなる。狭義の信仰というモノサシによれば、たとえばお金の使い道として有意義なことは、ただ献金に使う場合だけということになる。絵もカーテンもいらないということになる。ほんとうの信仰によって見えてくるのは、もっと広くて深い豊かな世界なのだが。

 父が「種類にしたがって」造られた被造物世界は、実に多様な側面を持った豊かで面白い世界である。トラの縞々模様は、擬態でもあろうが、おしゃれのためでもあるのだ。子としてこの世界を味わうためには、多様なモノサシが必要なのである。たぶん15種類ほどのモノサシが。娘に「お父さんのブログ、カテゴリーが多すぎだよ」と笑われるのだけれど。

新宿 文化学園の前