苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ヨハネの手紙第一 1章2,3節 metaでなくpros

新改訳聖書ヨハネの手紙第一1:2,3
「──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

 1月25日コメント欄で「風に吹かれて」さんに、存在を意味するeimiの場合は、eimi pros〜のばあい、prosにはほとんど「方向性」は見えず「関係性」のみであるという趣旨のご教示と新約聖書内のいくつかの用例を示していただいて、なるほどと思ったのだが、少しだけつっかえが残ってもやもやしているので、この際、書いてしまおうと思う。
 上述のように、2節には「御父とともにあって」とあり、この「とともに」と訳されるのはprosという前置詞である。一方、3節には「あなたがたも私たちとともに交わりを持つ」の「とともに」訳されているのがmeta(meth)という前置詞であり、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」における「との」がやはりmetaという前置詞である。訳文では「御父および御子との」と省略してしまっているが、本ギリシャ語本文では、御父と御子にそれぞれmetaが付けられている。つまり、meta,meta,metaと三つ並んでいる。
 こうしてみると、どうも、2節での「永遠のいのち」すなわち御子イエスと御父との関係についてはprosが用いられ、3節ではこれと区別して、クリスチャン同士の交わり及びクリスチャンと御父とクリスチャンと御子との交わりという三つの交わりに関してはmetaという前置詞が用いられているのかなと思われる節がある。ちなみに、メタという前置詞は、prosとちがって、ふつうwithの意味で用いられるから、ヨハネ第一1:3の訳語として「とともに」と訳すのはごく普通である。また、「風にふかれて」さんに教えてもらったように、ちょっと調べてみたが、eimiとセットでmetaを用いて、「〜といっしょにいる」という意味の使い方もしばしばされている。たとえば、ヨハネ福音書の例を挙げれば、ヨハネ3:26、11:31、12:17、20:24。
 そこで、だ。eimi meta〜という用法が可能であるならば、どうして、記者ヨハネは2節ではehn meta ton pateraと言わず、ehn pros ton pateraと言ったのだろうか。この現象は、metaということばでは表現することのできない御子の御父に対する関係を、prosで表現しようとしていることを示唆していると見えるのである。やはりmetaには含意されない、「方向性」をもつprosを用いたところに意図を感じるのである。御子が御父の目をしっかりと見るという方向性を。・・・考えすぎ、か。

    箱の中の猫フウタ