苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ヨハネ福音書1:1,2  「ことばは神の面前に」   


              大月湖夜明け



 22日にヨハネの手紙第一1:2をとりあげて、御子イエスを意味する「永遠のいのち」が「御父とともにあ」ると訳されていることが奇妙であることを指摘した。というのは、「とともにwith」と訳されることばはprosという前置詞で、通常「〜に(向かって)to,toward」と訳されることばだからである。
 同じ現象が、ヨハネ福音書1:1,2にもある。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」という訳文である。ここでも「神とともに」と訳されている「とともに」はprosである。「ことば」とは、文脈上いうまでもなく御子イエスを指している。
 22日のコメント欄に書いたように、専門家の友人によれば、prosには「〜に向かってtoward」という方向を示す意味とともに、「とともにwith」という深い関係を示す意味もあるという説明をうかがったので、いったんはそんなものかなと思ったのである。また、ヘブル語のエットに当たるのではないかというふうな解説もうかがった。そして結論は、「神とともに」でよい考えていらっしゃるとのこと。
 しかし、やっぱり、しっくり来ないので、ヨハネ福音書におけるprosの100あまりの用例を網羅して調べてみた。すると、なんとというべきか、やはりというべきか、1章1節、2節以外では、すべて「〜に(向かって)toward,to」という意味しか適合しない。「〜とともにwith」という意味になりうる箇所は一箇所もない。ほんとうかな?と思われる読者は、ご自分でhttp://gknt.org/gnt/search.htmlの空欄にprosと書き込んで確かめて見られるとよい。
 こうしてみると、やはり、ヨハネ福音書1章1,2節のprosのみを「とともに」と訳すのはどう見ても翻訳の原則上、無理があると思う。ここはやはり、「初めにことばがあった。ことばは神に向かってあった。ことばは神であった。この方は、初めに、神に向かっておられた。」と訳すのが正解だと言わざるをえまい。ただ、「神に向かう」と訳すと「神に向かって(進む)」という方向性とともに運動性を意味しているように感じてしまわれる読者がいるだろう。筆者が言いたいのはそういうことではなくて、深い関係をもって顔を向けるという意味で、「に向かう」ということなのである。深い関係性と方向性の両方を含みうる、なにかよい表現はないものか。
 ところが、長年がまんして憧れて買ったもののほとんど使いこなせていないBible Worksの辞書を開いてみたら、prosの訳語の中に、in the presence ofつまり「〜の面前に」というのがあるのを見つけた。まさに、これだろう。「初めにことばがあった。ことばは神の面前にあった。ことばは神であった。この方は、初めに神の面前におられた。」
 また、ヨハネの手紙第一1:2を「御父とともにあって」と訳すのも無理がある。こちらは、「──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父の面前におられる、私たちに現された永遠のいのちです。」と訳すべきである。ちなみに新改訳はヨハネの手紙第一3:21では、prosの訳語として「御前に」という訳語を採用しているのも参考になる。
 私がさかのぼれる限りでは、先に書いたように、このprosを「とともにapud(ラ)」と訳した最初はヒエロニムスのウルガタであり、それに親しんできたせいか、KJV(欽定訳)がwithと訳して以来、英訳聖書はことごとくwithを採用してきてしまい、邦訳もことごとくその影響に引きずられたらしく「とともに」と訳してしまったのであろう。
 だが、このprosは御子が、まっすぐ父の御顔をごらんになるようすを表現し、御父と御子の差し向かいの交わりを意味するとても大事な表現なのではないかと筆者には思われてならない。「とともにwith」と訳すことで、どうもそれがあいまいになっているように思われて残念である。