苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ヨハネの手紙第一 1章1節

 昨年11月下旬から長男と玉川直重さんの独習テキストを用いてコイネーギリシャ語の初等文法を勉強してきて、やっと文法篇が終わって、昨夜から後半のヨハネの手紙第一の講読にはいった。諸訳で次のようになっていて大差ない。
新改訳「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」(Ⅰヨハネ1:1)
文語訳 「太初より有りし所のもの、我等が聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手觸りし所のもの、即ち生命の言につきて、」
口語訳 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―」
新共同 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――」
NIV "That which was from the beginning, which we have heard, which we have seen with our eyes, which we have looked at and our hands have touched--this we proclaim concerning the Word of life."

 ところが、玉川さんは、新改訳で「聞いた」「見た」「じっと見」「さわった」という4つの語の時制の違いに着目せよという。新改訳で「聞いた(アケーコアメン)」「見た(ヘオーラカメン)」と訳されているふたつの語の時制は一人称複数現在完了であり、したがって、過去のある時における動作の結果としての現在の状態を表わしているという。だから、玉川さんは「聞いた」「見た」と訳すのではなく、「聞いている」「見ている」と訳すべきだという。1節前半の翻訳は「初めから存在していたところのものであって、私たちが聞いているもの、また、この目で見ているもの」となる。
 だが、後半はちがう。新改訳で「じっと見(エテアサメタ)」「さわった(エプセーラフェーサン)」と訳されているのは、いずれも時制は不定過去である。「不定過去はある動作の過去のある時に起ったことを示す」という。しかも、「エテアサメタ」は特に驚きをもって見たという意味である。それで、1章1節の玉川訳は次のようになる。
「初めから存在していたところのものであって、私たちが聞いているもの、また、この目で見ているもの、かつて私たちが(驚きをもって)見、この手でさわったところのものである、あの命の言について・・・・」
 英訳聖書の中で、これらの時制の違いを正確に訳しているのはASVである。
”That which was from the beginning, that which we have heard, that which we have seen with our eyes, that which we beheld, and our hands handled, concerning the Word of life”
 Youngs literal Versionは驚きをもってというニュアンスも含めて正確に訳している。
”That which was from the beginning, that which we have heard, that which we have seen with our eyes, that which we did behold, and our hands did handle, concerning the Word of the Life --”
 つまり、玉川訳は、後半の「驚きをもって見、この手でさわった」というのは、記者ヨハネが過去に直接経験したことを意味しており、前半の「聞いている」「この目で見ている」のはその過去の出来事に基づいて、今、信仰において経験していることを意味していると理解される。
 ここから後は、筆者の考え。ここから理解すべきは、信仰における今の経験と過去の事実の関係である。イエスの弟子たちが実際に「驚きをもって見て、触った」というのは、過去に時間と空間の中で起った驚くべき事実である。そして、キリストが天に上って行かれた後は、教会は、その過去の出来事に基づく信仰によってキリストを「見ており、聞いている」である。「信仰」を時間と空間の中に起った事実と無関係な神話や物語に解消してしまう人々がいるが、聖書的信仰とはその種のものではない。記者ヨハネは、時間と空間の中に起った驚くべき事件と、その事件にもとづいて今も信仰において経験している事柄、この両面をたいせつなこととして記しているのである。
 主イエスは疑う弟子トマスにおっしゃった。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ福音書20:29)トマスは時間と空間のなかで復活した御子を見た。そこに居合わせていない我々も信仰によって復活の主を見ているのである。