苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近現代教会史5 「歴史は進歩する」という迷信 19世紀(その2)

2 「歴史は進歩する」という迷信

  19世紀に支配的であり、かつ20世紀にまで影響を及ぼしてきた「進歩」という理念を検討したい。これは、近現代人を長らく支配してきた「迷信」であって、1970年の大阪万国博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」であった。その源泉と欺瞞性について。
(1)進歩史観
 近代において支配的な思想の一つは人類は進歩するという考え方であった。現代にいたってもなお進歩思想は流行している。宇宙が、地球が、ゲームが、車が「進化した」などと言われる。車とゲームは改良されたものであり、宇宙や地球は崩壊に向かって変化しているのであって進化などしていない。しかし、進歩史観は近世・近代のものであって、けっして普遍的なものではない。
 古代世界では、時は循環するという考え方が普通であった。おそらくそれは自然の変化を観察することから生じた観念であろう。古代人は自然が春夏秋冬が繰り返すように、歴史は循環していると考えたのである。また、ヨーロッパ中世には、古代は黄金があり、次が銀、その次が銅・・・というふうに、人類は退歩してきたという歴史の見方、いわば退歩史観がふつうの考えであった。だからこそ、古代のものに立ち返り、古代を復興しようというルネサンスに意義があった。
 進歩史観は、技術と科学の進歩を信じたフランシス・ベーコンなど近世になって現れたが、それが本格的な時代思想となったのは十八世紀啓蒙主義の時代以降であり、完成するのは十九世紀である。フランス革命期の教育思想家コンドルセ(一七四三−九四)は『人間精神の進歩』で、人間は能力と道徳の完成に向かって進歩していくと主張し、科学の進歩と教育の進歩が、平等化を完成し、道徳と幸福の進歩をもたらし、ついに人間の真の完成にいたると考えた。
 実証哲学の祖コント(一七九八−一八五七)もまた進歩思想家であった。コントは人類は、
1. 知性の指導による原始的な神学的段階(神を信じる段階)、
2. 過渡的な形而上学的段階(観念的な哲学思想の段階)、
3. そして究極的な実証的段階(唯物主義の段階)
――へと進歩すると主張した。そして、この実証的段階に到達した人々による知的共同体が生まれ、独裁政権を取って世界を支配すると、そこに理想社会が到来するとしたのである。
 しかし、進歩史観が多くの人の心を納得させたのは、こうした哲学者の論文ではなく、産業革命が起こって以来、急速に人間の生活がみるみる変化してきたという事実であろう。科学文明によって人類は地上に理想国家を来たらせることができるという妄念に人々は捕らわれた。
 一般に、カント後ドイツ観念論哲学の系譜がフィヒテシェリングと続き、ヘーゲルにあって近代哲学が完成したといわれる。このヘーゲルは進歩思想の権化であった。ヘーゲルはこの弁証法の論理によって自然と歴史と精神の生成・運動・発展が起こると主張した。コントとヘーゲルの進歩思想は、英国古典経済学、フランス唯物論、ルソーの全体主義思想とともに、マルクス弁証法唯物史観の源泉となる。

(2)進化論
 自然科学の方面から進歩思想を支持したのが、ダーウィニズムであった。チャールズ・ダーウィン(1809−82)がガラパゴス諸島を訪れ、島々の小鳥やゾウガメやイグアナがそれぞれの島の環境に適応して異なる形態になっていることから、進化論の確信を得、『種の起源』を完成したことは有名である。だが実際にダーウィンが見たのは、単にそれぞれの種の中での変化にすぎなかったのである。彼が言う進化とは種の枠を越えた変化であって、種の中の変化ではないのに、ゾウガメのくびが長くなったとか、フィンチのくちばしが長くなったとかいう変化から、長い時間のうちには種の枠も越えられるのではないかと、ダーウィンは空想したのである。
 ダーウィンの進化説から百年数十年、化石の発掘と実験と観察を繰り返した結果、種の枠内の変化はあっても、種の枠を越えて新種が生まれることはけっしてないということが明らかになっている。にもかかわらず、なお進化が世界中で事実として通用しているのは奇観というほかない。これは現代人にとって、進化論は単なる科学上の仮説ではなく、一種の宗教として受け入れられていることを意味している。
 進化論は、近代の思想界には熱烈に歓迎された。理由は二つあると思われる。一つは啓蒙主義者の多くは理神論者だったが、彼らは神の世界への介入は否定しながらも、創造主なしでは多様で秩序ある世界の始まりを説明できなかったので、やむなく創造主のみは認めていた。が、進化論によれば世界観の始まりから創造主を抹殺できると彼らには思われたことである。
 もう一つは、進化論は近代のドグマである進歩思想にフィットし、支持したことである。人間はどうみても不完全な存在であるが、完成に向かって進化していくと考えることによって、今の不完全さから目をそらさせることができる。進化という思想は現状を正当化するためのたくみな口実となる。進化・進歩教は将来の完成に希望をもたせることで人類の目的を示す一種の宗教となったのである。
 進化論を哲学思想として拡張したのはハーバード・スペンサー(1820−1903)であった。彼は「総合哲学」で宇宙は進化すると主張し、天体の発生から人間生活のすべてを進化によって総合的に説明しようとした。スペンサーは明治日本の思想界に最大の影響を与えた一人である。現代のテレビや図鑑も博物館も教科書も、ごく日常的に「星の誕生」「星の進化」「宇宙の進化」から始まり、「生命の自然発生」「アメーバの進化」、「人類の誕生」に至る総合哲学の教えをあたかも科学的事実であるかのように、教えている。
 共産主義者たちは、進化論を唯物史観の科学的根拠として歓迎した。世界の共産主義国家が崩壊した現在でも、進化論だけは科学的装いをしているゆえに、なお命脈を保っている。現代人にとって「科学」は共産主義以上の偶像であるからである。また、今日ではニューエイジ思想のなかに、進化論は生き残っている。ニューエイジの汎神論においては、東洋的な輪廻転生と進化論を安易に結びつけて霊的な進化ということを主張している。

3 進歩思想と聖書批評学

(1)ヘーゲル弁証法テュービンゲン学派の新約聖書高層批評
 自由主義神学の聖書高層批評に影響をおよぼしたのは、ヘーゲル哲学の弁証法の論理である。弁証法というのは「正→反→合」の論理であり、ヘーゲルはこの弁証法の論理によって自然と歴史と精神の生成・運動・発展が起こると主張した。たとえば、中世は神秘主義の時代だったが、これを「正」とする。やがて、近世は「反」として合理主義の時代が来る。が、やがて、次に反動として神秘主義的なロマン主義の時代が来るが、ロマン主義は単なる中世的神秘主義でなく合理主義をも含んだより高度な神秘主義である。これが「合」である。このロマン主義の次にはまた、より高次の合理主義の時代・・・と無限に発展していくというわけだ。弁証法の論理で一切が生成発展するという哲学は、多くの知識人の魂を魅了した。神学者も例外ではなかった。
 原始キリスト教の形成を、弁証法の論理で解釈し聖書批評学に応用したのが、テュービンゲン大学のF.C.バウルである。彼はまず、初代キリスト教会にはナザレのイエスから直接の教えを受けたペテロ主義が「正」としてあったが、これに「反」として反律法・恩恵主義のパウロ主義が対立し、やがて、両者の対立がアウフヘーベンされることで恩恵と律法を説く古代キリスト教が成立したという。つまり、「合」である。しかも、バウルは聖書の各文書の成立年代をこの弁証法の枠から推断した。つまり、その文書の思想内容からその手紙の古さを測定したのである。
 弁証法の論理から、恩恵救済を力説するガラテヤ書、ロマ書、コリント書はパウロ自身の真筆だが、他の恩恵救済を強調していない「パウロ書簡」はパウロの真筆ではなく、ペテロ党とパウロ党の対立が破棄・融合されて成立した原始キリスト教会がパウロの名を用いて作った偽作だと断じてしまう。弁証法の論理が、下層本文批評ですでに確定した聖書テキストの事実よりも上に位置づけられているのである。

(2)宗教進化論と近代旧約聖書
 自由主義神学旧約聖書理解は、宗教進化論の影響を受けている。ダーウィンの影響を受けて宗教進化論を唱えたのは、E.D.タイラー(1832〜1917)である。彼は人類の文化すべてについて研究を進め、文化・言語・宗教・道徳・呪術などに対する概念規定を独創的に行い、文化科学内におけるそれぞれの位置を定めた。また、「単純で断片的なものから複雑で統合されなものへ」という生物進化論の枠組みに沿って、宗教発生の第1の段階として、万物に霊的存在が宿るというアニミズムを想定し、<アニミズム多神教一神教>という宗教進化の図式を考えた。この論はその後多くの論争をひきおこし、優れた研究を生み出すきっかけとなったが、現在ではすべて根拠のない説として否定されている。
 タイラー説をヘブル人の宗教の形成にあてはめたのが、ヴェルハウゼン(1844-1918)である。すなわち、ヘブル人の遊牧生活の時期はアニミズムの段階にあたり、やがて、モーセによる発展期にはいったのは単一神教の段階であって、多くの神々を認め、その中の最高神ヤーウェという考え方になった。ついで、カナンの諸宗教の中で成長して唯一神教となり、最後の段階に到達はモーセの律法によるのではなく、預言者の宗教であるとする。預言者は儀式的な神礼拝をはげしく攻撃し、超越的な神概念がここに誕生したというわけである。
 また、ヴェルハウゼンは文書資料説によって、モーセ五書の成立について説明を試みた 。その分析は<単純で断片的なものは古く、複雑で組織的なものは新しい>という進化論的基準による。この考え方からすると、単純・断片的な預言書、詩、箴言の類いは古いとされて、組織的体系をもったモーセ五書のような文書は後代のものであると位置づけられる。いちおう文書資料説に立つ諸説のうちの標準として「聖書大事典」(教文館)の内容から報告すれば、詩篇の一部、箴言は9世紀、預言書アモス、ホセア、第一イザヤは8世紀、ゼパニヤ、エレミヤ、ナホム、ハバクク書というぐあいに配置されて、モーセ五書はなんと紀元前10世紀のJ資料、前8世紀のE資料、前7世紀のD資料、前6世紀のP資料が編集されて前5世紀頃に成立したとされる 。こうした説が、自由主義の聖書学の世界では今もって常識とされている(別紙参照)。
 しかし、20世紀にはいってから急速に発達したオリエント考古学による紀元前2000年期の契約文書の発見と、それらの大王契約の様式にのっとってモーセ五書とくに申命記が記されていることが判明して、モーセ五書の成立年代は大幅にさかのぼられ、実質的にモーセその人が五書の成立にかかわっていることが客観的に明らかにされてきた。K.A.キッチンは次のように指摘している。「紀元前2000年期後半の入念な形式を持つ条約は、その設計においてシナイ契約とモアブとカナンでの契約更新とにもっとも類似した形式上のパラレルを提供してくれる。その契約は、紀元前1000年期に支配的であったと判明している契約形式とは全く異なっている。このことは、モーセがほとんど十中八九は年代付けられるはずであるその時期に、モーセの契約の起源があることを十分に証明するものであり、彼の歴史的役割を(間接的にではあるが)好意的に支持するものである。 」
 こうしてオリエント考古学の成果による客観的な証拠群によって、ヴェルハウゼンに始まる文書資料説の虚構性があきらかにされてきたのだが、一度常識とされた学説というのはなかなか覆らず、リベラルな陣営においては20世紀半ばまで定説的な扱いを受けてきた。だが、20世紀後半になって文書資料説をつくがえす研究が進み、最近では自由主義神学系の出版物にもJEDP仮説に対する疑義が提出されるようになっている。