苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

蕎麦屋 ともせん

 筆者は信州に来るまで蕎麦というものがうまいものだと思ったことがなかった。関西人なので、麺といえばラーメンでなければうどんだったし、神戸ではうまい蕎麦というものにお目にかかったことはなかった。東京に住むようになって、黒い汁のうどんは食べたくなかったので、しかたなく蕎麦を食べる機会はふえたが、うまい蕎麦と言うものには一度も出会ったことがなかった。
 十七年前から信州に住むようになって、蕎麦のおいしさを知った。歯ごたえ、のど越し、香りのおいしさである。隣村のAコープに隣接している蕎麦屋で、当時は近所の蕎麦うち名人のおばちゃん、おばあちゃんたちが交代で蕎麦を打っていた。この地域ではある年齢以上の女性にとって、うまい野沢菜漬けをつくれることと、蕎麦が打てることは、主婦としての基本的技術だったのである。標高700メートルを超える寒冷のやせた土の山間部では昔は米が十分にとることができず、三食米というぜいたくは許されなかったからである。蕎麦はやせ地でもとれる。家庭集会にうかがっていて、「子どものころは、毎晩毎晩おふくろが打った蕎麦を食わされたもんだよ。」という話を、今五十代半ばの男性に聞かされたことがある。
ところが、その隣村の蕎麦屋がいつの間にか手打ちでなくなったので、行く気がなくなってしまった。そして、その頃、野沢の先輩牧師に教えてもらったのが、「ともせん」である。家内と初めて出かけたとき、午後2時前で午前中打った蕎麦がちょうど切れて、大将が一休みしていたところだった。蕎麦が切れたところだったので、私たちのためにささっと手早く打ってくださった。ラッキーだった。打ち立ての蕎麦である。つゆにつけて、「ひゃーおいし〜」。夢中で食べた。食べた食べた。夫婦そろって「ふーっ。おいしかった。蕎麦っておいしいものだったんですねえ。」と映画評論家みたいになってしまった。
そして、昨日の娘の誕生祝いに、ともせんに行った。「白駒」というネーミングの鴨ねぎそばの、つけ麺タイプ。これが絶品である。あったかい漬け汁が少し大き目の器に入っていて、それが少し濃くて甘みがあり、備長炭で焼いた鴨とねぎが入っている。これに打ち立ての蕎麦をつけて食べる。う〜感動。泣けてくる。おいし〜よ〜。おまけに温泉卵が付いている。好みでこれを汁にいれてもいいし、汁が薄くなるのがいやなら、汁をこれにかけていただいてもいい。実に工夫が行き届いていて、あ〜うまい。ともせんは、佐久総合病院のある臼田商店街にある。