苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近現代教会史1 フランス革命と理性崇拝

はじめに
 何を近代とするかについては諸説ある。ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約(1648年)で近代主権国家が成立したこと、経済においては産業革命によって資本主義が成立したこと、市民革命によって市民社会が成立したことなどが近代の特質とされる。本稿では、すっきりと中世は6世紀から15世紀、近世は16,17世紀、近代を18世紀、19世紀とし、20世紀を現代と位置づけたい。近世と近代のちがいは、近代は理性の自律を信奉する啓蒙主義運動が出現したということである。大きな思潮としては18世紀は啓蒙主義的合理主義全盛であり、19世紀はその反動のように浪漫主義的な運動が展開されるが、それでも理性に対する楽観的態度は継続している。それが、20世紀になり二度の世界大戦を経て近代の合理主義的文明に対する楽観的態度は消えうせてゆく。

1.啓蒙主義フランス革命−−迷信からの解放から理性崇拝へ
(1)「啓蒙とはなにか
 インマヌエル・カント(1724−1804)は「啓蒙とはなにか」という問いに答えて、それが、「未成年状態からの脱却」つまり他者に指導されることなしに自身の悟性を使用できる状態に到達することであると述べ、そのために必要なのは「理性の公的な使用の自由」であると説いた。
 十八世紀は思想史的には啓蒙主義思想の時代である。「啓蒙」とは暗闇に光をあてるという意味である。暗闇とは中世的・封建的なものを意味し、光とは人間理性を意味している。啓蒙主義者たちは人間理性を絶対の基準として、旧来の権威・制度・習慣・思想などはことごとく批判し、これからの解放を目指した。批判の対象には、教会制度、そして聖書までも含まれることになる。その背景には、宗教改革以降、ヨーロッパで繰り広げられてきた三十年戦争などの宗教戦争と正統主義に立つ新旧両教会に対する失望と反感がある。
 一面では啓蒙主義にはキリスト教社会を中世的迷信から解放したという功績がある。たとえば、この時代以前、カトリックプロテスタント精神病者や変人をすべて悪霊つきや魔女と考えて、多くの人々を異端審問にかけて焚刑に処した。しかも、魔女狩については密告制度があったから、事実無根で魔女に仕立て上げられて、火あぶりにされてしまう者も多く、一つの町や村が人口激減してしまう例もあったという。啓蒙主義は、こうした迷信をことごとく消し去ってしまう。本来的には、聖書によれば、精神病者の一部分は悪霊によるものであるが、彼らは焚殺されるべき人々でなく、むしろ主の御名によって救われ、解放されるべき人々であるが、聖書に立っているつもりでも時代の文化の影響を受けているものなのである。
 啓蒙思想が力を持つためには、カントがいうように「理性の公的な使用の自由」が必要である。そのためには、いままでは迷信や伝統などによって覆い隠されていた合理的知識が万人の目にさらされることが有効である。フランスにおいて、ディドロダランベールをはじめとする264人の啓蒙思想家たちが『百科全書』を編んだのはその意図である。フランス革命期、第一身分は僧侶、第二身分は貴族、第三身分は平民とされており、しかも、第一身分である聖職者の数は14万人、第二身分の貴族は40万人、第三身分の平民は2600万人。圧倒的少数の第一身分と第二身分が、国土の40%を領有して、免税特権をもっていた。こういう不合理なことが、「伝統である、昔からの習いである」として我慢しなくなるのは、啓蒙思想によった。不合理ではないかと伝統や習慣や迷信を批判する力を啓蒙思想は与えたのである。
 しかし、他面、啓蒙主義思想は反キリスト教的・反超自然主義思想である。啓蒙主義は、聖書の真理までも、他の迷信や伝統と同じように、批判の俎上に載せたわけである。啓蒙主義歴史観のお得意はガリレイ裁判(判決1633年)であり、キリスト教会こそは理性の光を妨げてきた迷蒙そのもののように教えられる。
もっとも今日では、ガリレイのみならずケプラーパスカルなど十七世紀の天才たちが、聖書とならぶ「もう一冊の書物」としての自然を探究していたことが、A.N,ホワイトヘッド やH.バターフィールド によって実証され、さらにキリスト教信仰が近代自然科学の出現した背景であることが実証されている。ホワイトヘッドは言う。「(中世が科学運動に対してなした最大の貢献は)すべての個々の事件が、それに先立つものとまったく明確に連関させられて、一般原理を実証する、という抜き難い信念である。この信念がなければ、科学者たちの信じ難いほどの努力も希望のないものとなるであろう。・・・エホバの人格的力とギリシャ哲学者の合理的精神との併せ持つものと考えられた「神」の合理性を、中世の人々があくまで強調したことに由来するものにほかならない。いかなる些事も神が照覧し秩序付けている。自然探求の行きつくところ、合理性に対する信仰の弁護になるほかはない。」
ガリレオ・ガリレイスウェーデンのクリスティナ妃への手紙で次のように述べている。
 「そういうわけでありますから、自然の諸問題を論ずる場合は、聖書の章句の権威から出発すべきではなく、感覚による経験と必然的な証明をもとにすべきである、と私には思われます。なぜなら聖書も自然も、ともに神の言葉から出ており、前者は聖霊の述べ給うたものであり、後者は神の命令によって注意深く実施されたものだからであります。・・・中略・・・神は、聖書の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」(『世界の名著ガリレオ・ガリレイ』より)

(2)フランス革命概観
 フランス革命について、簡潔に概観しておきたい。
<アンシャン・レジームの終焉>
 旧体制「アンシャン=レジーム」に対する批判が起きた時代の国王はルイ16世(位1774〜92)。狩猟と錠前作りが趣味の王。妻はマリー・アントワネットルイ16世の時代、国家財政の赤字増大が大問題になっていた。国家財政の収入が5億リーブル、支出が6億2千リーブル、財政赤字は45億リーブルに上った。収入の9倍の赤字である。赤字の原因は、ルイ14世時代以来の対外戦争の出費。アメリカ独立戦争を援助したこと。宮廷の浪費。ルイ16世が所有している馬車は217台。馬が1500頭。猟犬が1万頭。宮殿で使うローソク代だけで数万ルーブルかかったという。
 第一身分と第二身分に課税しようとするために、ルイ16世は、久々に三部会を召集した。三部会がはじまると、会議は議決方法でもめた。第一身分と第二身分をあわせても、593人。第三身分の621人よりも少ない。第三身分は貴族への課税に賛成だから、単純に多数決をとると、確実に特権階級は負けて、貴族への課税が決定する。そこで、第一、第二身分は議決方法として、人数には関係なく、一身分一票を主張した。第一身分に一票、第二身分も一票、第三身分も一票持つとした。会議は空転して先に進まない。決断すべきは国王。しかし、ルイ16世は、その決断ができない。
 6月、三部会に見切りをつけた第三身分代表の議員たちは、三部会を飛び出して、自分たちだけで議会をつくった。これが、国民議会。彼らは憲法を制定すること、国王が国民議会を正式な議会と認めるまで解散しないことを誓った。「球戯場の誓い」。ルイ16世は、しぶしぶ国民議会を正式な議会として承認し、国民議会は憲法制定に着手した。
 しかし、ルイ16世は国民議会をつぶすため、軍隊に動員をかけた。パリの市民たちは、これを察知し、自分たちも軍事力で国民議会を守ろうと考えた。武器のない市民が武器をとったが火薬が足りない。火薬の保管場所がバスティーユ牢獄。そこで、市民たちはバスティーユ牢獄を襲撃した。バスティーユ牢獄はパリ市内にある。ルイ14世時代から政治犯を収容するようになっていたので、専制政治の象徴でもあった。市民たちはバスティーユ牢獄を占領した。1789年7月14日が、フランス革命勃発の日とされる。
 市民軍の総司令官はラファイエット。彼は自由貴族で王に同情的。市民も王に同情的で、王妃や側近が悪いと考えていた。
 パリでの事件が伝えられると、全国で農民が蜂起して、貴族、領主の館を襲う。借金の証文を焼き捨てる。地方の農村は「大恐怖」とよばれるパニック状態に陥ります。農民たちが、実力行使で封建的な支配制度を壊そうとしはじめたわけですね。
 パリや地方の民衆の動きをうけて、8月4日、国民議会は「封建的特権の廃止」を宣言しました。8月26日に、国民議会はラファイエットが起草した「人権宣言」を発表した。第一条「人間は、生まれながらにして、自由であり、権利において平等である。社会的な差別は、共同の利益に基づく場合にしかもうけられることができない」有名な文章です。
 こうして、アンシャン=レジームは終わる。
立憲君主制・王の裏切り>
 10月5日パンを求めて怒れる女性七千人が「ヴェルサイユ行進」をし、国王家族はパリの宮殿に連れ戻される。その間、ラファイエットを中心とする人々は、イギリス風の立憲君主制のための憲法を準備していた。
1791年ところが、ルイ16世は、フランス国民を捨てて王妃の故国オーストリアに亡命しようとして途中逮捕されて連れ戻された。これによって国民の王に対する信頼は吹き飛んでしまった。これが「ヴァレンヌ逃亡事件」。
しかし、ともかく1791年憲法制定。内容は立憲君主制制限選挙。教会と亡命貴族の土地を没収して財政難をしのごうとするが、買い手がつかずうまく行かない。
『8月10日事件』
ルイ16世は革命政府をつぶすために、オーストリアに通じて戦争を起こさせる。やがて1792年8月10日、国王が祖国を敵に売り渡して保身を図っていることが革命市民たちに知られるようになって、王権は停止され、国王一家は逮捕され幽閉される。
貴族たちが亡命し、国王とその支持者たちが敵に通じていたために、当初フランス軍は連戦連敗する。しかし、「祖国」の危機に義勇兵が立ちあがり、ラ・マルセイエーズを歌ってヴァルミーの戦いで勝利する。ゲーテ「この日この場所から世界史の新しい時代がはじまる」

国民公会、国王処刑、反革命軍と戦争>
 立憲君主制の1791年憲法は役に立たなくなったので、男子普通選挙により国民公会がスタート。王政廃止と共和制樹立。1793年1月21日、パリの革命広場で二万人の市民が見守るなかで王はギロチンで処刑された。国王を殺すということは、最大のタブーであって、父殺しをした息子がアノミー無法状態)に陥るように、急性アノミーに陥った。英国のピューリタン革命においても国王殺しは行なわれたが、かの革命においてはクロムウェルピューリタン的規律ある社会を理想としたからアノミーに陥らなかったが、フランス革命においてはそうは行かなかった。なぜなら、彼らは王制の伝統のみならずキリスト教的伝統をも破壊したからである。共和政革命の熱狂がここに生じる。
 国民公会では、大きく分けてふたつの派閥があった。ジロンド派ジャコバン派ジロンド派は、裕福な商工業者である上層・中層市民が支持している。政策は穏健で、自由経済を主張。現実主義的で商人の利益のための政策。たとえば価格統制は嫌って、このインフレの中で庶民が飢えているというのに、価格を吊り上げて金儲けをする商人をとりしまろうとはしなかった。他方、ジャコバン派は、職人、小商人など下層市民が支持している。政策は急進的、理想主義的であった。
ジャコバン派独裁とテルミドール反動>
1793年6月から1年間、ついにジャコバン派は、実力で議会からジロンド派を追放し独裁政治を開始した。指導者はロベスピエールという6歳で母を亡くし、10歳で父が蒸発し、兄弟たちを自ら育てたという苦労人、超まじめ人間の弁護士。庶民の味方。彼は公安委員会に権力を集中して革命を遂行した。
・封建的特権の無償廃止。
・最高価格令。インフレを抑制する
・徴兵制の採用など軍政改革。国民軍編成。
革命暦の制定。
メートル法の採用。
・市民宗教創設。最高存在の祭典。
ジャコバン憲法(93年憲法)の制定。男子普通選挙などを含む民主的内容の憲法ですが、未実施。
・「恐怖政治」による反革命罪で夥しい人々を粛正。ジャコバン派内ゲバ
 恐怖政治のために反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人、死刑の宣告を受けて処刑されたものは約1万6千人、それに内戦地域で裁判なしで殺された者の数を含めれば約4万人にのぼるとみられる。結局、1794年7月テルミドールの反動で、ロベスピエール自身も逮捕され、ギロチンで処刑された。


(3)国民国家出現と理性崇拝
 残念なことに啓蒙主義は理性を神格化することによって、迷信だけでなく、まことの生ける神と神のことばまでも否定してしまう。啓蒙主義的理性は、フランス革命において暴走した。フランス革命の実態は血なまぐさい内ゲバに満ちたものであった。 フランス革命は伝統を非合理という名のもとに根こそぎ否定し、王や僧侶、貴族の特権や教会制度を旧体制として破壊した。中世の荘園・教会・ギルドなどの組織が破壊されると、従来これらの組織に属していた民はばらばらになり、国民として政府に直結される。従来、政府と民の間にあった中間的な存在がなくなり、民は「国民」となったのである。国民国家がここに成立した。
 「国民(ナシオン)」は、独裁的権力を持つ中央政府の下で、平等に「愛国心(パトリオティスム)」を精神的支柱とする国民教育を受け、平等に国税を払い、平等に「祖国(ラ・パトリエ)」のために戦う国民軍兵士として徴用される近代の全体主義国家ができあがったのである。従来、教育は教会や貴族が私的に行なっているものであったし、軍人は各王や領主たちの傭兵であった。以後、戦争の性質が大規模化することは避けられなくなる。傭兵による戦争の場合、兵士もいわば商売であるから戦うにも限度があるし、また兵員にもかぎりがあるが、国民軍が編成されるならば兵士はいわば無尽蔵に徴用することができるからである。それゆえ近代の戦争は大規模になり総力戦となっていく。
 フランス革命の革命家らが崇拝したのは「理性」であった。彼らは革命が勃発した一七八九年以後、聖職追放と教会破壊を進めてきたが、九三年十一月には全国的に礼拝の禁止と教会閉鎖を実施し、十一月十日にはノートルダム大聖堂で「理性」の神を祭る宗教儀式を行ない、九四年六月八日には、ルソーを崇拝する独裁者ロベスピエールは新フランスの大司祭として「最高存在と自然」をまつる祭典を挙行した。
 フランス革命の熱情が頂点に達したロベスピエール支配の「恐怖政治」の時期は、テサロニケ後書に預言される「不法の人」の国家体制を彷彿とさせる。そして、これは百年後のロシア革命以降、中国、北朝鮮カンボジアポルポトなどの大量粛清の共産主義による全体主義革命の祖型である。「彼はすべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く挙げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」(2テサロニケ2:4)

*参照「愛国心の始まり」→http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100827/p1

 いったいフランス革命の指導思想とはどういうものだったのか。

デカルトの合理主義とルソーの全体主義・・・17世紀から18世紀にかけての社会構造の激変

 革命家らが伝統的諸価値を大胆にも否定できたのは、近代哲学の祖デカルト(René Descartes, 1596−1650)の合理主義精神による。デカルト的理性とは、善悪・美醜・歴史など微妙な次元までを判断する広い知性の働きではなく、「三角形の内角の和は百八十度」というような幾何学的・論理的に明らかなことだけを真理だとするような、ごく狭い意味の知性の働きである。デカルトは論理的明証性を与えない経験には価値がないと考えたから、歴史や伝統を無謀にも無価値だとすることができた。
 デカルトは『方法序説』で「犯罪や闘争のもたらす不都合に迫られて、やむをえずおいおいに法律を作ってきた民族は、寄り集まった最初から思慮の深い立法者の憲法を守り通した民族ほど立派に開けて行けぬだろう。」と言っている。このことばは、時代は隔たるが、あたかもマグナ・カルタ以来、歴史的経験を重ね試行錯誤しつつ徐々に国民の権利を獲得してきた英国の立憲君主制に対して、伝統的諸価値をことごとく不合理だとラディカルに破壊し、かつ、理性の計画にしたがって新国家を建築しようとしたフランス革命が優越していると主張しているように読める。

 フランス革命の指導的思想は直接には、ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712−78)の思想である。革命でバイブルの位置を占めていたのは、ルソー『社会契約論』であった。ルソーは革命勃発の前年に死んだ予言者であった。彼は、ジュネーブで生まれたが早く父母を失い、孤児としてあちこち転々として育てられた。成人して後の女癖の悪さ、自分の五人の子どもを次々と遺棄した事実と悔恨と非現実的な子ども礼賛、そして彼に無縁であった家族、学校、教会、伝統文化に対する激しい憎悪は、不幸な幼少期の経験が影響していると思われる。彼はデカルトライプニッツ、ロック、パスカルなどを研究してのち、パリに行き、『学問芸術論Discours sur les sciences et les arts』(1750年)、『人間不平等起源論Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes』(1755年)、『社会契約論Du Contrat Social』 (1762年)』『エミールEmile ou de l'éducation (1762年)』などを書く。ルソーの筆致は情熱的かつ魅力的なのだが、その思想内容は恐ろしい。彼の思想をきわめて簡潔にまとめてみる。
 第一。人間は自然状態においては平等で善で幸福であった。
 第二。ところが、所有制度と政治体制が生じたことによって、不平等が生じ、現在の人間は悪くなり不幸になっている。だから人間が幸福になるためには、現在の政治制度を破壊すべきである(以上、『人間不平等起源論』、『エミール』の自然礼賛・人為排斥の教育理論も同根。)
 第三。旧体制破壊後、民の一般意志を体現する神的立法者(『社会契約論』1:7)が定めた法と国家体制のもとで、国民すべてが平等となる。国民は立法者を通して自分の主権を行使しているから完全な民主主義である。
 第四。国民は能力・財産・自由・生命にいたるまで自発的に祖国にささげるべきである。しかも、国民は自分の意志と祖国の意志とが一致するから、自由である(『社会契約論』1:6)。
 第五。理想的国民を作り出すためには、理神論的な「市民宗教」を創設する(『社会契約論』4:8)。これが「最高存在の祭典」のもとの思想。
黙示録十三章の全体主義国家の姿を髣髴とさせる。この思想的系譜は、100年後のロシアのボルシェビキによる革命、中国の共産主義革命、カンボジアポルポトによる革命に連なる。事実これらの革命を起こした人々は、ルソーに心酔した人々であった。
 革命以前、17世紀は絶対王政の時代と呼ばれるが、実は、社会は中世以来のさまざまな特権をもつ社団が入り組んでおり、専制君主の命令は個々の民には届くものではなかった。こうした国家形態を社団国家と呼ぶ。国王がおり、国王の下には領主や修道院の荘園やギルドなどさまざまな社団があり、個々人は国王に直属するわけではなく、それぞれ領主(貴族階級)や修道院やギルドの構成員というアイデンティティしか持たなかった。
 けれども、革命によって王は殺され貴族階級は次々に亡命して、中世的な社団が消滅していく。そして国民は革命によって成った中央政府に直結されることになる。これは民主的国家であるが、構造的には全体主義国家と同じである。中央政府の一声で暴走する危険が多い。



(4)啓蒙主義キリスト教、そして無神論

 啓蒙主義者の中には、急進的なフランスのサド侯爵のような無神論者もいるが、多くは理神論者deistであった。フランスではヴォルテール、英国ではシャフツベリー卿やジョン・ロックや、その影響下にある米国建国の父ジェファソンやフランクリン、またドイツの哲学者カントたちは理神論者である。ロック『キリスト教の合理性』(1695)、トーランド『非神秘的キリスト教』といった先駆的著作に加え、ヒュームは『奇跡論』(1748)においてキリスト教の本質は奇跡と無関係だと主張した。また、カントは晩年『単なる理性の限界内の宗教』(1793)を記している。ここで彼は啓示・祈り・メシアなどのユダヤ教的要素を排除した理性宗教を主張している。
 啓蒙主義者がいう「神」とは人間の理性で納得できる自然法則の枠内に閉じ込められ、自然法則に介入して奇跡を起こすことすらできない理神論(deism)の「神deus」にすぎない。理神論の神とは、時計にとっての時計屋のようなものである。時計屋がいったん時計を作ったら、時計はそれ自体の法則にしたがって機能しているように、啓蒙主義者の神はいったん世界を造った後は引退して世界に手を出すことができず、世界はそれ自体の法則にしたがって運行しているという。したがって事実上、人間は理性をもって世界を自由に支配できるということになる。当然、理神論においては奇蹟も啓示もない。啓蒙主義者とはいわばサドカイ派である。主イエスは理神論者たちにいうであろう。「あなたがたは聖書も神の力も知らない。」と。
 普通デカルトは思想史上、理神論者とは呼ばれないが、彼の神観が事実上、理神論的であることについては、パスカルがすでに指摘して批判している。「私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学の中で、できれば神なしですませたいと思った。だが、彼は世界に運動を与えるために、神に最初のひと弾きをさせないわけにはいかなかった。それがすめば、もはや彼は神を必要としない。」
 理神論は神の摂理は否定しても、創造のみは維持せざるを得なかったが、やがて、無神論へと向かっていくことになる。デカルトは精神と物質の二元論を唱え、精神を持つのは人間だけであるから、動物は機械だと考えた。フランス革命期のヴォルテールなど多くの思想家は、伝統的教会を破壊しつつも、創造主としての神の存在だけは認める理神論に立っていた。しかし、医者であったラ・メトリは、デカルトの動物機械論をさらに人間にまで押し広げ、『人間機械論』を書いた。精神活動といわれることは肉体の機能の一部にすぎない。したがって、物質的・感覚的享楽こそが人間の最高の目標であるとした。神の存在は根拠もなく無益であるとして、無神論が一般に行なわれれば世界は幸福になると主張した。背徳者マルキ・ド・サド侯爵はこの徹底的無神論を文学に表現し、かつ、実践した。彼は自然の本質を悪と見、神は人間の敵であると主張した。
 デカルト的な理性ratioの光は、迷信・不合理な封建的特権を打破する力を持った。しかし、理性主義rationalismは伝統・道徳・歴史にまつわるもろもろの価値を全否定する方向に向かうことがある。内角の和が180度といった明白なことがら以外、確かで意味あるものはないというならば、すべては確かにナンセンスとされてしまうほかない。こうしたルソーの全体主義革命論に内包されるデカルト的理性は、フランス革命だけでなく毛沢東主義による文化大革命カンボジアポルポト革命で同様の悲惨な結果をもたらしている。