苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近世教会史12 自由教会の自由とは

 イギリスの国教会との信仰上の闘いの中から、国教会から分離して自らの神の前の良心にしたがって礼拝をささげる人々の群れが誕生した。これが本来的な意味での、「自由教会」である。つまり、自由教会というのは、国教会制度のある国々において、国教会とは別に、政教分離の立場を堅持して、教会が聖書・信仰告白という教会自体の権威によって自治されるべきだという立場の教会を意味している。<国家権力からの教会の自律>が自由教会の自由である。今日、会衆派、長老派、メソジスト、バプテスト、クェーカなど多数のプロテスタントは自由教会主義に立っている。
 自由教会主義における自由は、神のことばへの服従を目指している。この意味での自由は、次の『ウェストミンスター信仰告白』第二十章第二項に明確に定義されている。
 「神のみが良心の主であり、神は、何事においてもみ言葉に反し、あるいは、信仰と礼拝の事柄においてであれば、み言葉の外にあるところの、人間の教えと戒めから良心を自由にされた。それで、良心を離れてこのような教えを信じまたは戒めに服従することは、良心の真の自由を裏切ることである。また盲従的信仰や絶対的・盲目的服従を要求することは、良心の自由と理性とを破壊することである。」したがって、「国家的為政者は、み言葉と礼典との執行、または天国のかぎの権能を、自分のものとしてとってはならない」のである(同告白二十三条第三項)。
 告白文の調子が非常に強い。この信仰告白の背景には、イングランドスコットランドでは、信仰のゆえに多くの者が投獄され、また殉教者たちのおびたたしい血が流されたからである。スコットランドでは、長老派教会の人々が、カトリックの信仰を強制しようとする「血塗られたメアリ女王」を初めとする王たちと、教会の独立のための戦いを展開した。トマス・ブラウン『スコットランドにおける教会と国家』は読んでおきたい。

 「信教の自由」ということばは、今日の日本では「何を信じようとそれぞれの勝手だ」という誤解している人々が多い。そもそも自由とは、「〜からの解放」「〜への解放」として定義されるときに中身がある。「信教の自由」とは、「国家(国教会)の束縛からの解放」であり、「真の神礼拝への解放」なのである。つまり、真の神を礼拝することについて、国家(国教会)の束縛を受けないということが、「信教の自由」の本来的意味である。

 イギリスをはじめとして、国家(国教会)の束縛に耐えかねた人々は、国家権力から自由を求めて、アメリカ大陸に渡り、そこに教会を形成していく。そこには当然、国教会が存在しないかったが、「自由教会」という言葉は残ることになる。すると米国における「自由教会」の「自由」とは、本来の<国家教会から解放され、神のことばにしたがう>という中身が、あいまいな「自分のしたいようにする」という意味にずれていくことになる。
 というわけで、米国における自由教会における「自由」とは、教会は個人の自発的参加による共同体であって、なんら強制はないという意味として取られたりする。(これでは教会戒規など機能しないだろう。)  また、米国の自由教会の自由は伝統的なものからの解放を意味するということから、伝統的信条からも解放されて聖書以外に信条は要らないという気風となる。(本来、ウェストミンスターなどの信条はそれをもって国教会からの自由を獲得するための道具であったのだが。)  また、各地域教会が所属教派の上部会議に服さない、あるいは上部会議というもの自体がない、つまり単立主義という意味での自由を意味するようになる。  さらに教派によってはfreeには、座席「無料」の意味がこめられるようになる。(金持ちの信者のボックス席が古いメソジストにはあった。)このように、ヨーロッパにおける「自由教会」と、米国における「自由教会」の意味する内実は、教会の置かれた文脈が違うので、はなはだ異なっている。


<お気に入り>大樹先生の奥さんの実家のある秋田の海辺のお土産。天然勾玉。