苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近世教会史ノート10 正統主義の時代(3)イギリス:ピューリタン運動

序 ピューリタン革命と名誉革命    

 イギリス17世紀の教会のピューリタン運動は、我々にとって特に重要である。というのは、この運動の中から、現代の多くの教会・教派が誕生しているからである。16世紀の宗教改革運動は、ルター派、改革派、アナバプテスト、英国のプロテスタントを生み出した。英国のプロテスタントは、17世紀になると国教会とそれに対抗するピューリタン運動に分かれ、そこから、長老派、会衆派(組合教会)、バプテストが生まれる。一方、国教会からは、17世紀中にクェーカー派(フレンド教会)、後18世紀にはメソジストが生まれ、10世紀にはメソジストからは救世軍、ホーリネスが生まれてくる。
 ところで、英国では、今はピューリタン革命Puritan Revolutionという呼び方はせず、(English) Civil War(s)という呼び方が一般的である。いわゆる市民革命として評価するとすれば、ピューリタン革命の成果は王政復古においてほとんど逆行してしまったので、続く名誉革命とあわせて意義を考えられるべきとされるからである。また、現在、王政が布かれている英国の学会の立場から言えば、王政そのものを否定したピューリタン革命を積極的に評価することはできないという事情がある。しかし、キリスト教会史として考えるとき、上述したようにピューリタン革命はそこから近現代の諸教派が出現したというそれ自体で意義深い出来事である。
日本人がイギリスというと、あの二つの島を思い浮かべるが、そこにはもともとイングランドスコットランドウェールズアイルランドという四つの国があったし、今も「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」である。このことを頭に入れておかないと、話がわからなくなる。
                                             
「イギリス」の変遷
前9C〜5C ケルト人たちの諸部族が住む。(イングランドにはブリトン人、スコットランドにはピクト人、アイルランドにはゲール人、そしてウェールズ人)
前1C ローマ帝国による支配
5C  ゲルマンの一派アングロ・サクソン族の侵入と七王国時代
1066年 ノルマンディー侯ウィリアムによる征服
1282年 イングランド王国ウェールズ公国を併合する。以降イングランド王室次期王位継承者に対してプリンス・オブ・ウェールズウェールズ大公)の称号を用いる
1541年 イングランドヘンリー8世アイルランド王を自称する。
1603年 スコットランド王ジェームス6世がイングランド王ジェームス1世として即位し、イングランドスコットランドが同君連合となる
1707年 イングランドスコットランドが連合してグレートブリテン王国が成立する
1801年 アイルランド全域を正式に併合してグレートブリテンおよびアイルランド連合王国となる
1922年 現在のアイルランド共和国部分がアイルランド自由国として分離独立し、グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国となる。
                                             
イングランド史を概観すれば、この島には有史前からケルト人諸部族が住んでいた。紀元前1世紀にローマ帝国の支配が及ぶが、ローマ帝国の衰退とともに5世紀にアングロ・サクソンが侵入して七王国時代となる。1066年の征服王ウィリアムによるノルマン・コンクエスト以来の議会中心か王権中心かの闘争の頂点が「清教徒革命〜名誉革命」だった。清教徒革命によって議会派側が王権を打倒し共和政を樹立したが、その後にオリバー・クロムゥエルによる独裁を招き、彼の死後、王政復古となった。名誉革命では立憲君主制を成立させた。その後は、おおむね体制に変化はなく産業革命から大英帝国へと繋がっていく。

(1)ピューリタン革命とウェストミンスター会議
a ジェームズ1世そしてチャールズ1世が王に
 イングランドのテューダー王朝は、1603年独身の女王エリザベス1世で断絶した。そこでエリザベスの叔母の曾孫にあたるスコットランド王ジェームズ6世がイギリス王ジェームズ1世として王位を継承した。これがステュアート朝の始まりである。すでに長老教会の成り立っているスコットランドの王であるにもかかわらず、空気の読めないジェームズ1世は、「王権神授説」をふりかざして、イングランドの伝統である議会を無視して政治を行おうとしたため、国王と議会の対立が深まった。
 スコットランドジェームズ1世イングランド王となると同時に、スコットランドの長老主義の考え方もイングランドの教会に入ってきた。イングランド人はその革新性に驚き、英国国教会もこのように革新すべきであると考える人々が出てきた。彼らがピューリタンである。
 ジェームズ1世の息子チャールズ1世が次の王となり、イギリス国教会を自身の権力の支柱とし、スコットランドにも国教会の信仰を強制しようとした。スコットランド教会は長老派であったので、信仰の自由を守るため反乱を起こして抵抗した。1640年、チャールズはその鎮圧の費用を調達するため議会を召集したが、議会はわずかの差で議会派が王党派を上回り、チャールズを非難する決議をした。大抗議文の作成を主導したか、賛同して国王軍と戦った議員が議会派であるが、主張の濃淡は多様であった。イングランド東南部で支持された。多くの者たちが国教会改革を唱えたが、求める改革の方向は宗派によってまちまちであった。長老派(中央権力を弱めて長老制教会をめざす穏健派)、平等派(社会契約・普通選挙を主張)、第五王国派(第五キリスト教千年王国)、真正水平派(原始キリスト教社会主義)、中立派(中立の立場で各派の和解をはかる)、盟約派(スコットランド勢力、国民盟約に加わった人々で、信仰的には長老派と同じ)。

b ウェストミンスター会議
 混乱のなかでウェストミンスター会議(1643年−1649年)が開催された。「ウェストミンスター会議(The Westminster Assembly of Divines )は、1643年、長期議会によって、イングランド国教会を再編するように命じられた神学者たちの会議である。議会のピューリタンは、5回も会議の招集を要求したが、チャールズ王は、毎回サインを拒んだ。 そこで、下院の条例として準備されて、やっと5回目に王の同意なしで可決され6月に有効となった。会議は、30人の信徒(10人の貴族と20人の一般人)と、121人の神学者と牧師から成った。聖職者は、四つの派の代表から選ばれた。監督制主義者。長老制主義者。会衆制主義者。エラストゥス主義者 。
最初の会議は、1643年7月1日に開かれ、以後1649年までに1163回におよんだ。会議が最初与えられた仕事は国教会39箇条の改定であった。
アイルランドローマ・カトリックが、王の側について反乱に加わる危険があったので、議会はスコットランドの助けを要請した。そして厳粛同盟契約が結ばれた。スコットランドは、「スコットランドの信仰を守り、神のことばによって、イングランドアイルランド宗教改革をし、最もよく改革派教会を表すために」、カトリック的な監督制の根絶を要求し、6人のスコットランドの委員がウェストミンスター会議に参加した。
1643年10月12日に、ウェストミンスター会議は議会から、「神の聖なる言葉にかない、教会と家庭を守り、スコットランド教会と他の改革派教会に一致した、戒規と教会政治」の勧告を求められた。会議はそれを受けて、39箇条の修正をやめ、新しい信仰基準の作成にとりかかった。そして4年の間にウェストミンスター信仰告白ウェストミンスター大教理問答、ウェストミンスター小教理問答を生み出した。・・・教会政治について4派は合意できなかった。WCFには長老主義政治が定められているけれども、これはスコットランド長老派の協力を必要とした当時の議会派の事情によるものであって、後に革命の主役となるクロムウェルら会衆派(独立派)は、長老主義政治に実は賛成していなかったのである。

c 内乱勃発と国王処刑
(写真はamanaimages.comより)他方、革命の動向である。1642年、チャールズは議会派の議員を逮捕しようとしたが失敗し、これを契機として王党派と議会派の内乱が勃発した。
 戦争のはじめは王党派が優勢であったが、その後オリヴァー・クロムウェル の組織した「鉄騎隊」の活躍によって議会派が優勢となった。議会派の軍隊はこの「鉄騎隊」にならって 能力本位の組織に改組された。1645年のネーズビーの戦いで王党派は完敗し、チャールズ1世はスコットランドに逃走したが、1647 年、スコットランドから議会軍に引きわたされた。
 内乱は一旦議会派の勝利で終結したが、今度は議会派の内部で対立がおこった。独立派と長老派の対立である。独立派とは各教会の独立と横の連合を主張した宗派であり、長老派とは長老会による全国の教会の一元的指導を主張した宗派である。王党派に対しては独立派の方が非妥協的であり、長老派の方が妥協的であった。チャールズはこの状況を見て脱走し、スコットランド軍と連合し、王党派の軍を率いてふたたび内乱を起こした。しかし、チャールズはまたも議会軍に敗北し、第二次内乱は終結した。
 議会派のなかで最多数を占めたのは長老派であったけれども、軍事力を背景として持つのは独立派であった。独立派は長老派が追放あるいは逮捕にかかり、権力を掌握することになる。 1649年議会はチャールズを裁判にかけ、裁判はチャールズを死刑にすると判決した。処刑は判決の3日後に実行された。議会は君主制の廃止と共和国コモンウェルスの開始を宣言した。1649年5月のことである。「国王を殺した」という出来事は、人類史上恐るべき事件であった。
「100ポンドという莫大な賞金と昇進とを約束して死刑執行人を兵士の中から求めたが得られず、ついに屠殺業あがりの死刑執行人を用いたといわれ、そしてまたこの死刑執行人は数ヵ月後心身消耗して死んだと伝えられ、この出来事は恐るべき不気味な余韻をのこし、全ヨーロッパの人々の心を震撼させた。それは前代未聞の出来事、木下尚江の言葉を用いるならば、『恐怖か、驚愕か、名状すべくもあらぬ一種の感慨』の中に人々を、否定的にせよ、肯定的にせよ、『酔いしびれ』させずにはやまないような出来事であった 。」

d クロムウェル護国卿に
共和国の指導者となったクロムウェルは、急進的な水平派を弾圧、中産市民の権益を擁護する。重商主義に基づいた政策を示し、同時に貴族や教会から没収した土地の再分配を行った。
カトリックアイルランドスコットランドは1649年から1651年にかけて反議会派の拠点であった。クロムウェルは総司令官兼総督に任ぜられて侵攻を始め、アイルランドスコットランドに遠征。アイルランドにおける住民虐殺、農地没収、アイルランドでは多くの民が餓死し人口は半減した。クロムウェルは今日にいたるまでアイルランドでは特に悪名が高いのは当然である。
中産市民は王党派による反革命の可能性もあったため、クロムウェルの事実上の独裁を支持した。クロムウェルは1653年に議会を解散させて終身護国卿となった。全国を11軍区に分けて軍政長官を派遣し、軍事的独裁を行った。ただ彼は権力の亡者ではなかったようで、議会によって国王への就任を2度にわたって望まれるが、これを拒否して護国卿の地位のまま統治にあたった。そもそも従来、国土と国民というものは王の私有財産であった。その国王を殺してしまった後、その財産は誰の所有に帰するかということは難題であった。もしここでクロムウェルが新しい王を名乗ったならば、彼は王位簒奪者にすぎず、王の財産を奪い取った強盗にすぎないことになったであろう。国はイングランド共和国(Commonwealth of England)、コモン・ウェルスすなわち国民の共有財産と称したのである 。
しかし1658年にクロムウェルマラリアで死亡すると、跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルはまもなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろした。
その後、長老派が1660年にチャールズ2世を国王に迎えて王政復古を行うと、クロムウェルは反逆者として墓を暴かれ再斬首ののち市中で四半世紀晒され、生存していた妻子は斬首刑に処された。リチャードは亡命した。クロムウェルが優れた指導者だったのか、あるいは強大な独裁者だったのか、歴史的評価は分かれる。英国が王政であるかぎり、彼が高い評価を得ることはむずかしい。

e 名誉革命 ・・・・立憲君主制確立「君臨すれども統治せず」
 ジェームズ2 世は、イギリスにカトリックの信仰 を復活しようとはかった。1688年、カトリックの王妃に王子が生まれると、ホイッグ党、トーリ ー党は共同でジェームズ2世の廃位を計画し、ジェームズ2世の長女メアリーの 婿で、オランダ総督であったオレンジ公ウィリアム3世にイギリス国王に就任するよう要請した 。ウィリアム3世がこれにこたえてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世はフランスに亡命した。

 1689年、ウィリアム3世はメアリーとともに、イギリスの共同統治者として 国王に即位した。ウィリアム3世はイギリス国王にしてオランダ共和国の総督であっ た。
 議会は国王に「権利宣言」を承認させ、これを「権利章典」として発布した 。これによって、国王は議会の同意にもとづいてのみ統治することとなり、イギリスの立憲君主制がここに成立した。この革命は流血をともなわなかったとして 、イギリス人はこれを「名誉革命」と言っている。
 この名誉革命によって成った立憲君主制の思想的支柱は、哲学者ジョン・ロックである。 ロックには、両極の論敵があった。一方は王権神授説に立ち教会をも支配する専制君主制であり、他方は国民の精神生活のすみずみにまで純潔を求める熱烈な清教徒主義であった。ロック自身はピューリタンの家庭に育ったから、国王を絶対君主とする立場には組みしなかったが、もう一方で、信仰的立場の異なる者にまで清教徒的生活を強要するクロムウェルの統治を見て、熱烈な清教徒主義にもへきえきしていた。ロックにとって信仰は、あくまで他者の立ち入れない内心の問題であった。ロックは両者の中道を選んだ。王政ではあるが、あくまでも憲法の制限下に置かれた王政である。
ロックは政治思想を述べるときには、自然法としての理知を強調する。そして、その自然法とは神が人間に与えたものであり、これがロックの政治・社会思想を支える柱となっている。政治的社会以前の人間の自然状態において、すでに神が与え給うた自然法が存在し、そこで人間は家族関係を基本とする社会生活を営んでいる。人は、自然法のもとでは、平等で独立しており、自由・生命・所有の自然権を持って暮らしていたという。
 しかし、人間は誤りやすく自然法を逸脱して戦争状態に陥りがちである。そこで人々は平和を取り戻すために合意して国家を造り、立法権を最高とする権力を統治者に信託した。したがって、人々の信託を裏切る暴君的独裁者は非合法であるゆえに、これに対する抵抗権・革命権は正当なものであると、ロックは主張する。
 しかし、同時に、ロックは先の暴君を打倒して、地上に完全無欠な権力者を立てれば、国家は国民を外的にも内的にも幸福にできるなどという夢想はいだかない。むしろ、彼は「法をつくる権力を持っている同一人物が、同時にその法を執行する権力まで手に握るということは、とかく権力を握りたがる人間の弱さにとってきわめて大きな誘惑であろう。」(『統治論』一四三)と、権力の分立の必要性を説く。彼の念頭には、清教徒革命においてクロムウェルが独裁者となったときの、英国社会の息苦しさが思い起こされているのであろう。フランスのモンテスキューはロックの影響を受けて、三権分立を説くようになったのである 。
 また、「魂への配慮は、いかなる他人にもゆだねられないことで、為政者にも同じくゆだねられはしないからです。神はそれを為政者にゆだねませんでした。神は、だれかを自分の宗教に強制して引き入れるというような権威を、いかなる人にも与えはしなかったのです。」(『寛容についての書簡』)ともいう。王権神授説に立ったカトリック国教主義にせよ、クロムウェル独裁における清教徒主義の強制にせよ、ロックにとっては忌むべきものであった。
 というわけで、誤りやすい人間が作る権力である以上、それは制限されたものであるべきだとする最小限国家論がロックの国家に関する主張である。そして、これはマグナ・カルタ以来、王に対してさまざまな制限をもうけた誓約を取りつけることによって、自由を獲得してきた英国流の改革の伝統にのっとったものであった。こうして英国の立憲君主制は確立した。