苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の辞書に不可能という文字はない  ルカ1:37

 クリスマスにちなんで、昨日に引き続き、マリヤへの受胎告知の場面の翻訳上の疑問の二点目である。ルカ1:37節の訳文については四つの邦訳聖書の間にはさして大きな違いはない。

 新改訳(2,3版)「神にとって不可能なことは一つもありません。」
 口語訳 「神には、なんでもできないことはありません」
 前田訳 「神には何ひとつおできでないことはありません」
 新共同訳「神にできないことは何一つない。」
 ただ文語訳聖書のみが、「言(ことば)」という語を次のように訳出している。
   文語訳 「それ神の(凡ての)言には能はぬ所なし」

 調べてみると、この箇所には二通りの有力な写本本文がある。ひとつは「ホティ(なぜなら)ウーク(ない)アデュナテーセイ(できない)パラ・トー・テオー(神にとって)・パーン・レーマ(あらゆることが)」である。これを直訳すれば、「なぜなら、あらゆることが神にとって不可能ではない」となる。ここは「レーマ」を「ことば」ではなく、文語訳以外の邦訳はみな、「事(こと)」と訳している。
 もうひとつの有力本文は「パラ・トー・テオー(神にとって)」が「パラ・トゥ・テウ(神からの・神から出た)」となっている。これを直訳すれば「なぜなら、神から出たあらゆることばには不可能はない。」となる。どうやら文語訳はこちらの本文を採用しているようである。
 「パラ・トー・テオー」、「パラ・トゥ・テウー」いずれの写本も有力なので、あとは文脈上、どちらが適切かという判断になるだろう。ちなみにネトスレ27版は後者を採用している。
 「パラ・トー・テオー」を採用する説に有利なことは、この御使いのことばは、かつて子どもを与えるという神の約束を笑って信じなかったアブラハムの妻サラに対する、御使いの厳しいことばの引用とみなされるのではないかということである。笑ったサラに対して御使いは言った。「主に不可能なことがあろうか・・・」(創世記18:14)新約聖書時代に普及していた旧約聖書七十人訳ギリシャ語本文では「メー・アデュナテイ・パラ・トー・テオー・レーマ」となっているので、たしかにかなり類似しているし、奇跡的懐胎という予型的な意味の文脈からも引用の可能性があろう。

 他方、「パラ・トゥー・テウー」に有利なことはなにか。ルカ1章5節から56節という大きな文脈は、昨日も書いたように、この箇所は神が御使いガブリエルに託したことばに対する信仰・不信仰が主題となっている。<ザカリヤは御使いのことばを信じず懲らしめを受け、マリヤは35−37節の御使いのことばを信じて「どうぞ、あなたのおことばどおり(レーマ・スー)この身になりますように」(38節)と祈り、そしてザカリヤの妻エリサベツにそのことを称賛されている。>この文脈の真ん中で、御使いガブリエルが宣言している一節がルカ1章37節である。だから、御使いガブリエルは、単に一般論として「神は全能である」と言っているのではなくて、「神のことば」を運ぶ御使いとして、「神から出たあらゆることばに不可能なし」と厳かに宣言していると理解するほうが明らかに文脈にかなっている。
 もっと短い文脈、即ち御使いのことば(37節)とマリヤの応答(38節)に着目すれば、御使いのことばのなかの「レーマ」とそれを受けたマリヤのことばの「レーマ」が対応していることに気づく。ところが、「パラ・トー・テオー」を採って「レーマ」を「こと」と訳した場合、この対応が不可能ではないが、ぼんやりとしたものになってしまう。新改訳では次のようになっている。
 「(御使いは答えて言った)神にとって不可能なことは一つもありません。』
   マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
 だが、「パラ・トゥ・テウー」を採れば、次のように、御使いのことばとマリヤのことばががっちりとかみ合う。ツーといえばカーである。
 「(御使いは答えて言った)神から出たおことばに不可能はない。』
  マリヤは言った。『ほんとうに、わたしは主のはしためです。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように。」

 筆者の結論は、ルカ1章37節の御使いのことばは、「神から出たあらゆるおことばには不可能はない」という意味と取るほうが文脈により適合しているということになる。邦訳聖書のなかでは、文語訳に軍配を上げたい。御使いガブリエルのことばは、ナポレオン風に言えば「神の辞書に不可能という文字はない」ということである。