苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近代教会史ノート8 正統主義の時代17世紀(1)ドイツ


*正統主義の時代   17世紀
 近世から現代の教会史を、ごく大雑把にいえば、16世紀は宗教改革時代、17世紀はその成果をまとめた正統主義時代、18世紀は正統主義への反動としての敬虔主義・啓蒙主義時代、19世紀は啓蒙主義への反動としての自由主義神学と世界宣教の時代、そして20世紀は「近代」の挫折(ポスト・モダン)であり、今もなおポスト・モダン課題に対する解決は見えないままに来ている。
 17世紀、ヨーロッパ大陸は、フランス、イギリス、北欧を始めとした地域に中央集権化が進んで行き、国王は教会をも王権の下に収め、教会を国民統合の手段としようとする。古い時代のコンスタンティヌス主義がまたぞろ登場という構図である。そして、専制君主たちの権力意志は、衝突して絶え間ない戦争が起こる。
 この時代、プロテスタントはローマ教会と他派に対して自派の神学体系の正統性を主張するために、改革者たちの成果をより精緻に体系化することに力が注いだ。これに対して、ローマ教会も対抗宗教改革によってカトリック正統主義を体系化することになる。
 この自派のみを正統とするようなメンタリティをもつ神学に支えられた教会と、我こそは絶対だと思っている専制君主の国家とがコンスタンティヌス以来の伝統で結びついていた。それゆえ、国家が戦争に明け暮れるとき、それは悲惨な「宗教戦争」となってしまった。
  
1.ドイツ:宗教戦争から宗教寛容政策へ
(1)シュマルカルデン戦争(Schmalkaldischer Krieg)1546-1555年
 1546年に神聖ローマ帝国内において勃発した戦争である。カトリックを支持する皇帝カール5世とプロテスタント勢力シュマルカルデン同盟の間で争われた。1555年アウグスブルクの和議により一応終幕。これによりルター派プロテスタントが帝国内で許されることになった。

(2)三十年戦争(er Krieg1618-1648)とヴェストファーレン条約(=ウェストファリア条約1648年)
 16世紀にドイツで起きた宗教戦争アウグスブルクの和議で一応の停戦にこぎつけたが、この和議には、アウグスブルク信仰告白に署名したルター派しか含まれていなかったから、改革派とその他のプロテスタントはなお異端とみなされていた。アウグスブルクの和議では信仰の形態を選択する自由は領主・支配者にしか認められていなかったから、その領民たちは不幸な状況に置かれた。
ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱が起こり、神聖ローマ帝国を舞台とした国際戦争となる。「最後の宗教戦争」、「最初の国際戦争」などと形容されるが、スウェーデンが参戦した1630以降は、ハプスブルク家(独)、ブルボン家(仏)、ヴァーサ家(スウェーデン)による大国間のパワーゲームと捉える向きもある。スウェーデンのグスタフアドルフ王は自ら軍を率いてバイエルンまで進んできて、ヨーロッパ全土を席巻するほどの勢いで戦争には勝ったものの、戦死してしまった。
 すべての人が戦争とそれのもたらす荒廃に疲れ果ててしまった。国土が戦場とされたドイツ人たちは焦土と化したわが国土を前に呆然とした。スウェーデンもフランスも領土を拡張する目算が立って、兵を引く準備ができて、1648年ヴェストファーレン条約が調印された。この条約の意義の第一は、それまでの戦争はどちらかが勝つまで行なわれたが、この戦争は勝者も敗者もなく、初めて話し合いで戦争をやめた点にある。条約の第二の意義は、神聖ローマ帝国にヨーロッパ世界の支配が終わり、フランス、スウェーデンブランデンブルク(のちのプロイセン)、バイエルンデンマーク、スペイン、スイス、オランダはそれぞれ独立して、互いに主権国家であることを承認し合うことになった。ここに国際法が生まれることになる 。
 ヴェストファーレン条約の宗教に関しての定めの要点は、領主だけでなく領民もふくめてすべての人々が、カトリックルター派、改革派である場合にかぎって、自らの信仰に従う自由を認められたということである。ただしアナバプテストは含まれない。
 三十年戦争の結果、人々は宗教的なことがらを軍事力によって決着させようとすることが、いかに悲惨な結果を生むかということを知った。そして、お互いに自分こそ正統であると争う正統主義的な信仰のありかたに対する失望感、不信感が近代人の心を支配するようになる。十六世紀はプロテスタント宗教改革時代であり、十七世紀は宗教改革の成果を体系化して確立したプロテスタント正統主義時代とされるが、ヨーロッパは宗教をめぐって戦争で荒廃し、正統主義的キリスト教は特に知識階級からの信用を失ってしまう。これが次世紀の啓蒙主義思想の背景となる。

(3)ルター派正統主義の神学

a.フィリップ主義とルター派厳格主義
 ルターの宗教改革は、単に実践的なだけでなく、教理の改革を伴っていた。ルターは、「教会にとって決定的に重要なものは正しい教理であるという確信であり、格別、信仰義認の教理は、それによって教会が立ちもし、倒れもする教理である」と信じていた。
 ルターは、神学的天才であったが、諸教理を体系化することについては賜物ではなかった。彼は最も親しい友人フィリップ・メランヒトンに、その仕事を委ねた。ルター亡き後、メランヒトンルター派神学の中心的解釈者として跡を継ぐ。彼の『神学総論(ロキ・テオロギキ)』はルター派の標準的教科書となる。メランヒトン人文主義的傾向が強く、この点でルターと異なっていた。彼は、ルターと同じく信仰義認の教理を強調するが、救いの手段としてでなく、救いの実としての善きわざをも強調する。
 ルターとメランヒトンの違いは、ルター死後、フィリップ主義とルター派厳格主義との対立となっていく。メランヒトンは福音の中心的要素と、周辺的なことがらを区別し、周辺的なことがらをアディアフォラと名づけた。本質的な事柄はいかなる死守すべきだが、福音の本質を語り続ける権利を確保するために、アディアフォラに固執すべきでないとした。しかし、ルター派厳格主義者は、「福音に本質的な要素と周辺的な要素があることは真実であろうが、信仰の明白は告白が要求される状況は存在するはずだ」とした。たとえ周辺的と見なされるような要素であっても、場合によってはそれが信仰そのものの象徴となることがあり、それを放棄することは信仰を否定することに他ならないということがある 。
 また、聖餐式における主の現存について、フィリップ主義者はルター派厳格主義者からカルヴァン主義に似ているとして非難された。
 最終的に1577年『和協信条』において、論争のほとんどについてこの信条は中間的立場を採用した。
ルター派教会の信条については、http://www.remus.dti.ne.jp/~hiromi-y/sinzyou.html
参照。「アウグスブルグ信仰告白」「アウグスブルグ信仰告白弁証」「小教理問答」「大教理問答」「シュマルカルデン条項」「和協信条」

b.プロテスタント・スコラ主義
 和協信条のあと、ルターの主張とメランヒトンの主張の調和をはかり、他のプロテスタントカトリックとの違いを強調して、ルター派正統主義がいかに正しいかを示す体系を構築した。この時代の神学をプロテスタント・スコラ主義と呼ぶ。その3つの特徴は、
 第一にその巨大な体系。トマスの神学大全に匹敵する。ヨハン・ゲルハルトの第二版で23巻に及ぶ。
 第二の特徴は、アリストテレスを用いた。内容的にはカトリックと違うが、論調と方法はカトリックと類似している。
 第三は神学が教会生活・魂への配慮のためでなく、大学の学者のものとなった。
 それぞれの信仰の正統派神学者は、自らの神学的立場の防備を固め、あらゆる教理において同意するものだけがキリスト教徒と呼ばれるにふさわしいとみなす教条主義に陥っていった。絶対王政という時代の空気というものがあるのだろう。このような自派の教理体系を絶対化するメンタリティをもつ教条主義の教会が、剣の権能をもつ国家と結びついたものであると、その国家同士の争いは悲惨な宗教戦争とならざるを得なかった。
その結果は、キリスト教会の信用の失墜であり、多くの知識人たちは教理を大切にするキリスト教に対する嫌悪感を抱くようになっていく。こうして世俗化が進んでいく。次の時代の啓蒙主義運動の一因は、正統主義時代のキリスト教会の教条主義にあると言わねばならないであろう。