苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近世教会史4 改革派教会(1)ツヴィングリ

2.改革派教会  Soli Deo gloria
 「聖書のみ」「信仰のみ」「恩寵のみ」を旗印としてドイツのルターに始まったプロテスタント宗教改革であるが、同じ根本原理に立ちつつも別の展開を見せたのが、ツヴィングリを先駆者としてカルヴァンに継承され発展したスイス宗教改革運動に発する改革派教会である。改革派はカルヴァンの影響が大であるのでカルヴァン派とも呼ばれ、その教会の統治形態の特徴から長老派とも呼ばれる。
フルドライヒ・ツヴィングリHuldrych Zwingli,1484年1月1日―1531年10月11日
①改革者の形成
 ツヴィングリ(1484−1531)は、1506年バーゼル大学で修士の学位をとり、グラールスの司祭となった。彼は従軍司祭としてイタリア戦争の悲惨を経験する。また1513年からエラスムスを代表とする人文主義運動に参加し、ギリシャ語で聖書を研究し説教をすることを通して聖書中心的な思想を固めていく。だが当時の彼の思想は人文主義的なものであって、後の信仰認識とは違っており、ローマ教会を批判しつつも、そこから離脱するつもりはなかった。
1519年、転機が訪れる。ツヴィングリはチューリヒの司祭であったときペストにかかって死線をさまよう経験をしてのち癒され、神が自分を教会改革に召しておられることを確信し、立ち上がった。改革者としての形成には、ルターにおけると同様に、神との直面、自我の挫折にあたる経験があったことに注意すべきである。改革者たちは確かにフマニスムの方法をもって、聖書に取り組むことから改革を始めたのだが、フマニスムの単純な延長線上に宗教改革者たちはいない。彼らは神の御前で己の罪と死の問題に直面して、砕かれてから、改革者として立っていくのである。


     ペストの詩 (病の始まりのとき)  
助けたまえ、主なる神よ、助けたまえ、この苦しみから。
死は間近に迫っております。
私のそばにお留まりください、基督さま、あなたは死を克服されたのですから。
(中略)
けれども、あなたの命令で人生の最盛期に、死がやってくるのであれば、
ただただそれに従います。あなたの望まれるようになさってください、委細構わずに。
私はあなたの器であり、作るも壊すも自由になさってください。
私の魂をこの世界から奪うのであれば、世界がこれ以上悪くならないように、
他の人々の敬虔で明るい生活が汚されることがないようになさってください。

マールブルク会談Marlburger Religionsgesprach:聖餐論でルターと一致できず
 1529年、ヘッセン候フィリップ1世の命令によって、ルター派とツヴィングリ派は宗教改革運動の大同団結をめざしてマールブルクに集った 。
 他の14のテーゼではみな一致できたのに、聖餐に関してのみ一致することができなかった。カトリックの化体説 に対して、ツヴィングリは聖体を単なる象徴と考えていた(象徴説)。この点においてややカトリックに近い聖体とキリストのからだが共在すると唱えたルター(共在説)との差が決定的なものとなった。
 他にもルターと違い、ツヴィングリは礼拝からあらゆる音楽を廃止した。ツヴィングリから見れば典礼音楽も聖書に根拠がなかった。プロテスタントであってもほとんどの教派は、典礼や礼拝における音楽を否定しない。これは旧約聖書に礼拝における音楽への言及があるためである。

③信仰と政治
 ツヴィングリによる改革は修道院解散、ミサの廃止とプロテスタント化、教会堂内の聖像・聖画の追放、さらに貧民救済・教育機関の設置など実際的なことに及び、チューリヒ市の政治的問題にも積極的に発言した。ツヴィングリにとって、信仰生活と政治や日常生活は不可分のものであり、生活の全領域を神の主権の下に置こうとしたのである。
 ただ、ツヴィングリの場合、単純に一元的に神の言葉の下に政治をも置こうとしたために、教会と政治とが不分明で癒着する傾向があった。ツヴィングリは、第二次カペル戦争 において、自ら剣をとって戦い、戦死した。この事実は彼の宗教改革の特徴と問題性を象徴しているように思われる。チューリッヒのツヴィングリ像は聖書と剣を手に持っている。