苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自衛隊、警察は暴力装置・・あたりまえ・・・追記あり

 ニュースによると、国会答弁において、仙谷官房長官自衛隊を「暴力装置」と呼んだことが、国会議員たちの非難の的になってしまい、長官はすぐにこれを「実力組織」と言い換えた。だが、「暴力装置」というのは、マックス・ヴェーバーが国家権力が暴力を阻止する為の組織としての警察や軍隊を呼んだ社会学の術語である。ふつう、少し本を読む人ならば知っていそうなものなのになあ、と思う。即座にヴェーバーの名は浮かばなくとも、なんか政治学かなんかの用語だったな、くらいは思い浮かぶだろう。こんなことで大騒ぎする国会議員たちが自らの不勉強の恥をさらしているだけのことではなかろうか。一般人ならともかく、国政に携わる専門家なのだから知っていて欲しかった。
 ウィキペデイア「暴力」の項には次のようにある。
 「暴力に実質的に対抗できるのは同等の暴力だけである。つまり、暴力を統制するためにはより強力な暴力、すなわち組織化された暴力(Organized violence)が社会の中で準備されなければならない。軍隊、警察がこれにあたり、社会学者のマックス・ウェーバーはこれらを権力の根本にある暴力の独占(暴力装置)と位置づけた。」
 仙石官房長官も動転していたのか、「これは学術用語です。政治における常識的用語です。別に自衛隊や警察を侮蔑するような意味はまったく含まれておりません。云々・・・」と説明すれば、すんだと思うけれども。教養人ぶるなとか言われるのがいやで、答えなかったのかなあ。仙石という人は個人的に好きではないけれど、まあ、今回のことにかぎっては、彼を責める気にはなれない。責めるとすれば、説明するのをめんどくさがって、すぐに発言を撤回した点かな。

 ヴェーバーのいう「暴力装置」とは、神学的術語でいえば、「剣の権能」のことである。
「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」(ローマ13:3,4)
 人間は罪に陥っているので、放置すればこの世は、ヤクザが跋扈する北斗の拳のような世界になってしまう。そこで、神は摂理によって、この世の権力者に剣の権能を授けて、暴力を取り締まることを許されたというわけである。暴力を暴力で抑制することは理想的なことではない。しかし、いわば必要悪として、神は剣の権能をお定めになった。
 警察官あるいは自衛官が、相手が自分を攻撃することは暴力であって、自分の銃撃や殴打は「正義の鉄槌」だと思っていることはむしろ危険である。自分もまた暴力をもって、暴力を阻止しようとているということを自覚してこそ、まともにコントロールが利くであろう。そういう意味でも「暴力装置」というさめた表現はすぐれているように思える。<追記
 聖書における歴史の中で、この剣の権能の始まりは、大洪水の直後である。

「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。(中略)わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。
  あなたがたは生めよ。ふえよ。
 地に群がり、地にふえよ。」(創世記9章1-7節抜粋)

 アダム堕落後の人類はどこまでも腐敗・混乱して行き、「その思うところはことごとく悪に傾いていた」というほどになってしまい、最終的に大洪水による審判を招くことになった。そこで大洪水後、神は人類の再出発にあたって、剣の権能を定められた。剣の権能は、社会秩序の維持のためである。しかし、剣自体もたしかに暴力であるわけで、剣をもって剣を制するという働きである。創世記10章を見ると、地上で最初の権力者となったというニムロデの名が登場する。このニムロデが、次の11章で後に思い上がってバベルの塔を築いたとも解される。権力者(暴力装置担当者)の陥りがちな悪魔の罠である。
 ただし、剣の権能(警察権をもつ国家)はあくまで人間生活において二次的なものである。創造のときに定められた三つの制度は、神礼拝と労働と結婚(家庭)であった。これら三つの制度が正常に営まれるために、社会秩序を維持する道具として剣の権能(国家)は位置づけられるものであって、それ自体が目的化した国家主義はひとつの偶像崇拝にすぎない。

追記>2010年11月24日
 仙石氏の述べたことは、発言の文脈上もまったく正論である。詳細はこちらを参照されたい。http://plaza.rakuten.co.jp/intisol/diary/201011200000/