苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自然啓示の是非

自然啓示が問題なのだということを、はじめて認識したのは、大学生のとき、ゼミでティリッヒの組織神学の啓示論を読んでいたときだった。教授は小川圭治先生だった。そのティリッヒはnatural revelationは間違いで、revelation through natureと言うべきであるということを強調していた。つまり、自然の中に啓示があるというのではなく、あくまでも自然は啓示の媒体に過ぎないというのである。どうも自然のうちに啓示があるというのは、危険な考え方とされていた。
 どうして、自然啓示がそんなに問題とされるようになったかについて、小川先生が説明してくださった。30年前の記憶だから不正確かもしれないので、内容についての責は私にある。彗星のごとく現われて、またたくまにヴェルサイユ条約の桎梏の下で疲弊していたドイツを立ち直らせたヒトラーを熱狂的に支持するドイツ的キリスト者が出現した。その神学者たちは、ドイツ民族には世界を支配するという使命があるということは歴史のなかに現された神の啓示であると主張した。歴史的啓示というのは、「自然啓示」の一部とみなされる。これに対してバルトは、自然啓示はないと主張した。キリストの出来事においてこそ啓示があるのだとされた。
 小川先生の説明をうかがって、その時代的文脈を鑑みれば、バルトが自然啓示を全否定しなければならなかったのは、なるほどとわかる気がした。自然啓示などといえば、罪ふかい人間は恣意的に自然あるいは歴史の中に、自分の都合の良い「啓示」を見出して好き勝手なことを言うために神を利用するからである。
 
 では、聖書はなんと言っているだろうか。自然啓示を肯定する人々が(たとえば第二バチカン公会議文書)きまって引用するのは、ローマ人への手紙1章20節「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」である。しかし、この引用の仕方は不正確である。前後の文脈から抜き取っているからである。前後をいっしょに抜き出してみよう。
 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」(ローマ1:18-21)
 ローマ書がいうのは、確かに自然を通して神の永遠の力と神性は啓示されている。しかし、その自然啓示によって人は救われず、かえって罪に定められるということである。人を弁解の余地なくするために(eis to einai anapologetos)、自然を通しての啓示がなされているというのである。ちょうど、律法、良心を通して、神の正義の基準が啓示されているけれども、人はそれを守って救われるのでなく、守りえないことによって罪深さが明瞭にされるのと同じように。
 というわけで、「自然啓示はない」といったバルトの主張はローマ書1章に反する。自然啓示はある。しかし、「自然啓示を通して人は救いにとってなんらか有効な知識を得ることができる」という主張もローマ書1章に反する。
 
 では、たとえば主イエスが「空の鳥を見よ」「野のゆりを見よ」とおっしゃったりして、我々に神のみこころを悟らせようとなさったのはどうなるのか。主イエスは、自然啓示を肯定なさっているのではないだろうか。ローマ書とあわせて、これはおそらく、次のように理解すべきだろう。神のことば啓示にしたがって、自然啓示を理解するならば、我々は正しく自然を通しての神のメッセージを受け取ることができる。しかし、神のことば啓示抜きにして、自然啓示に向かうならば、我々はこれから正しく神のメッセージを受け取ることができない。えてして、自然の諸事物を神格化(偶像化)してしまうという過ちを犯す。
 というわけで、聖書から自然啓示ついて、次の三点を言うことができるだろう。
①神はたしかに自然を通しても啓示なさる。
②しかし、神のことばによる解釈を伴わなければ、自然啓示は救いのために有効には機能せず、かえって人はこれを偶像化するという罪に陥る。
③神のことばによる解釈をともなうとき、自然を通して我々は正しく神のみむねを受け取ることができる。