苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史30 中世神学 スコラ哲学(5)ロンバルドゥス、トマス

5.ペトルス・ロンバルドゥス(Petrus Lombardus,1100-1160or1169)命題集の父

ペトルス・ロンバルドゥス『命題集』はラテン・英語対訳がネットに公開されている。
http://www.franciscan-archive.org/lombardus/index.html

  ロンバルドゥスはアベラールのような論理力も、フーゴのような霊性もないが、後に「命題集の師magister sententiarum」と呼ばれることになる。彼の仕事は、伝統的な教会の教理を聖書や教父文献から裏付けようと多くの命題を網羅的に収集して、これを主要な神学的項目にしたがって配列するということだった。第一部三位一体論、第二部創造論、第三部受肉論、第四部秘跡・終末論。これが標準教科書『命題集Quatuor Libri Sententiarum』である。後に、この命題集に注解を加える許可が、神学を講じる基礎資格(baccalaureus sententiarum)となった。
 ロンバルドゥスには独創の才はなかったが、神学的教理の包括的記述ということでトマスの備えをした。アウトラインだけでもため息が出るような、あるいはうんざりするような膨大なものである。上記サイトを開いてごらんになるとよい。たとえば第一巻の中だけで68部あり、それぞれの部に1-10程度の章があって、第一巻に204章もある。

6.トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1225-1274)――自然と恩寵の二連梯子の神学
「恩恵は自然を破壊せず、むしろこれを完成する」((gratia non tollit naturam, sed perficit.)

Theologiaehttp://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~skawazoe/text/thomas/st/content.html
英訳 Smma Theologiae http://www.newadvent.org/summa/ ・・・これは便利
以下のメモは主に朱門岩夫「教父学」から。
(1)背景「西方の新プラトン主義、東方のプラトン主義、アラビアのアリストテレス主義」
 ヘレニズムの哲学的伝統は、アウグスティヌスの影響を受けたキリスト教の修道士たちによって、修道院の中で受け継がれていく。アウグスティヌスは、プロティノスをはじめとする新プラトン主義のことばでキリスト教を理解したから 西ヨーロッパには、新プラトン主義風のキリスト教が伝えられたという言い方もできる。
 他方、アリストテレス哲学は、イスラム世界で研究された。アリストテレスは、普遍が実在するというプラトンイデア論に対し、普遍が個物のうちにあるとした。アリストテレスのほうが個物を重んじる考え方であるので、医学や測量術や天文学など、個々の現象を扱う科学技術の盛んなアレクサンドリアで重んじられた。642年イスラムアレクサンドリア東ローマ帝国から奪ったことによって、アリストテレスの哲学はイスラム教に取り込まれる。イスラム帝国は、誕生してからわずか百年余りの間に、北アフリカから、さらにイベリア半島にまで勢力を伸ばした。イスラム教は、イベリア半島を介して、西ヨーロッパのキリスト教接触する。イベリア半島の町コルドバでは、イスラム教がアリストテレスの哲学を取り入れて、イスラムの教えを整備していた。
 西ヨーロッパのキリスト教は、イスラム教の教えと対決する必要上、アリストテレスの哲学を取り入れる。 とはいえ、トマスはもうひとつの源泉として、ほかの中世の神学者とおなじようにアウグスティヌスを非常に重んじていることも忘れてはならない。トマスの大全を読めば、哲学者アリストテレスアウグスティヌスの引用が非常に多い。

(2)トマスの生涯
 トマス・アクィナスは、イタリアのローマとナポリの間にあるアキノのロッカ・セッカ城に、城主ランドルフと母テオドラとの間に男5人・女4人の末っ子として生まれ、6歳のとき(1231年)モンテ・カシノ修道院に預けられ教育を受け、14歳のとき(1239)ナポリ大学に入学し、ドミニコ会の影響を受けて18歳のとき(1243)、ドミニコ会に入会した。しかしこの知らせを聞いた両親は、猛反対し、彼を強引に拉致してロッカ・セッカ城に連れ帰り、1年間ほど彼を幽閉した。そのとき、両親は、トマスに修道生活を諦めさせるために彼の部屋に美女を送り込んで誘惑させようとしたそうである。
 だが、彼の決意は変わらず、両親は結局トマスがドミニコ会に入ることを許した。そこで彼は、20歳のときパリのドミニコ会に入り、パリ大学で神学を学んだ。その後、パリ大学を始めとする各地の究機関で神学の研究と教授活動に一生を捧げ、49歳の若さでなくなった(1274)。彼は、死の三日前に、「私は、夜を徹して学び、説教をし、教えた。それはすべて、あなたへの愛のためでした」と言ったと伝えられている。
 彼の残した著作は膨大で、中世哲学の総決算であり頂点だった。トマスは、壮大なゴチック様式の思想を作り上げた。主著は、未完『神学大全』(Summa Theologiae)である。(そういえば、ノートルダム寺院も未完だったなあ。)

(3)トマスの思想
 トマスの課題は、アリストテレス哲学で理論武装したムスリムに対抗するために、キリスト教の神学をアリストテレス哲学を使って説明することであった。しかしその前に、そもそもキリスト教とは関係のないアリストテレスの哲学を使用することがキリスト教にとって問題のないことを証明することが必要だった。
 トマスは、まずアリストテレスの哲学とキリスト教との類似点をとらえる。アリストテレスは、<この地上の諸物事は、形相と質料から成り立っており、形相が物事の本質や運動を決める>と述べ、<万物は純粋形相を頂点にして秩序づけられている>としていた。アリストテレスにとっての神とは純粋形相であり、みずから動かずして世界を動かす第一原因だった。トマスは、アリストテレスのこの説に注目した。トマスの理解では、キリスト教の神も、万物のいわば第一原因だったからである。 トマスは、キリスト教の信仰とアリストテレスの哲学との重なり合うこのような面だけに注目すれば、アリストテレスの哲学をキリスト教の中に取り込みうると考えた。トマスによれば、我々は、キリスト教信仰上の真理の幾つかを、アリストテレスの哲学を使って理性的に証明できる。 たとえば神の存在証明。
 しかし、トマスは、アリストテレスが聖書を知らなかったために、その哲学は不完全であると言っている。たとえば、アリストテレスの第一原因は人間の言葉を使って語りかけることはない非人格である。他方、キリスト教の神は、人間の歴史に介入して語りかけてくる人格的な存在である。この欠けは聖書によって補うほかない。そんなわけで、トマスの神学大全アリストテレス、聖書、アウグスティヌスプラトンなどが引用されてできている。(「聖書のみ」の原則に立って神学を構築するプロテスタントの目から見ると、異様な感じがするが。)
 神に関する知識を得るには、理性の道と信仰の道があるが、後者の方が優っており、最終的には理性の道は、信仰の道によって補われなければならない。トマスは、「恩恵は自然を破壊せず、むしろこれを完成する」(『神学大全』第1部第1問第8項(gratia non tollit naturam, sed perficit.)と言ったが、恩恵とは神からの啓示であり、自然とは人間に生まれつき備わっている理性のことである。下からは自然的理性のはしご、上からは恩寵のはしご、つまり自然と恩寵の「二連はしご」で神認識は完成するということになる。
 トマスは、キリスト教信仰とアリストテレス哲学とは矛盾しないとして、アリストテレスの哲学を駆使し、信仰上の諸問題や哲学上の諸問題のほとんどすべてに、答えてしまった。彼は、ヨーロッパの中世が生んだ最高の頭脳だった。しかし最高点に達したということは、次に来るのは衰退である。

(筆者メモ:トマスは、キリスト教の信仰が対象とする範囲と、人間の理性が対象とする範囲とを整然と分け、理性の限界を示した。しかし、それは、その限界のなかにあっては理性は聖書の制約を受けることなく自律するという主張でもある。F.シェーファー風に表現すれば、自律の場を与えられた自然(理性)はやがて恩寵(啓示)を食いつぶしていくことになる。それが、トマスに始まり近世、近代、現代の思想史である。つまり、有神論→理神論→無神論・汎神論と。
 また、たしかコルネリウス・ヴァン・ティルが言っていたが、そもそも神の存在と被造物の存在を「存在」において共通であるとしている点において、トマス神学の錯誤がある。トマスの考え方では、「存在」である点で、神もまた因果律の下に置かれ束縛されるということになるから、諸結果から遡及して第一原因としての神にたどりつけるという考え方になる。ところが、まことの神は被造物とちがって無限であり、神は自存のお方であってどこまでも自由であられる。因果律に縛られるようなお方ではない。この考え方は、トマス後の唯名論主意主義の方向ということになるのだろう。)