苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史29 中世神学 スコラ哲学(4)サンヴィクトール修道院

4.サン・ヴィクトルのフーゴ(Hugo de Saint-Victor,Hughとも1096‐1141)と
リチャード(Richard de Saint-Victor,スコットランドまたはイングランド生まれ-1173)

 フーゴはフランドルあるいは ザクセンの貴族の出。幼時、ザクセンのハーメルスレーベン修道院で教育を受け、1115年、パリ近郊のサン・ヴィクトル修道院に移る。この修道院はアベラルドゥスの師ギヨーム・ド・シャンポーの創立にかかり、十二世紀には神秘主義の一本拠であった。やがて彼は同修道院の律修司祭の一人となり、1130年から没年まで同学林の神学講義を担当した。
 フーゴの神学的貢献を概括すれば、それまで西方教会に知られていなかった東方ギリシャ神学の思惟と西方的思惟との総合を図ったこと。神秘主義弁証法の結合を試み、神の純粋な直観こそ哲学の最高目的だと説いた。クレルヴォーのベルナルドゥスの親友であり、弟子には愛の分析から三位一体を解いたリチャード(リカルドゥスまたリシャール)やペトルス・ロンバルドゥスなどを数える。トマス・アクィナスによって最も頻繁に引用された学者。主著『キリスト教信仰の秘跡について』では、サクラメントを軸に据えて、キリスト教信仰全体を組織的に叙述する。
 フーゴーによると秘跡とは「身体的あるいは物体的要素であって、外面的にはもろもろの感覚によって受け止められ、何か不可視的かつ霊的な恩寵を、類比性によって代表し、制定によって指示的とされ、聖化によって包含するなにものか」である。このような条件を満たすものは聖書でいえばエデンの園の命の木、ノアの洪水の虹、洗礼の水、キリストのからと血。フーゴーは救いに不可欠なものは信仰、信仰による秘跡、善行の三つだとする。

サン・ヴィクトルのリチャードRichard de Saint-Victorの愛の分析による三位一体理解(三位一体論第三巻)
 「最高善、まったく完全な善である神においては、すべての善性が充満し、完全な形で存在している。そこで、すべての善性が完全に存在しているところでは、真の最高の愛が欠けていることはありえない。・・・しかるに、自己愛を持っている者は、厳密な意味では、愛をもっているとはいえない。したがって愛情が愛になるためには、他者へ向かっていなければならない。それで位格が二つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない。
 もしだれかが自分の主要な喜びに他の者もあずかることを喜ばなければ、その人の愛はまだ完全ではない。したがって愛に第三者が参与することを許さないことは、ひどい弱さのしるしである。もしそれを許すことが優れたことであれば、それを喜んで受け入れることはいっそう優れたことである。最も優れたことは、その参与者を望んで求めることである。最初に述べたことは偉大なことである。第二に述べたことはいっそう偉大なことである。第三に述べたことは最も偉大なことである。したがって最高のかたに最も偉大なことを帰そう。最高の方に最もよいことを帰そう。
 ゆえに、前の考察で明らかにしたあの二人の相互に愛し合う者(父と子)の完全性が、充満する完全性であるために、相互の愛に参与する者が必要である。・・・
 もしだれかが他者を愛するとき、一方だけが他者を愛するならば、そこには愛はあるが相互愛はない。また、もし二人が互いに愛し合い、相互に心から愛し合うならば、甲の愛情は乙へ、乙の愛情は甲へ向かい、いわば二つの異なった対象へ向かっているとき、彼らは二人とも愛情はもっているが、そこには共通な愛は存在しない。共通な愛は、二人が一心同体となって、第三者をともに愛するところに存在する。すなわち、二人の愛は、第三者への愛の炎で一つにとけてしまうところに存在する。そこから次のことが明らかになる。すなわち、もし神に二つの位格しか存在せず第三の位格がないとしたら、神において共通な愛は存在しないであろうということである。なぜなら、私がここで問題にしている共通の愛とは、ありきたりの共通な愛ではなく、創造主が被造物に対して決して持ち得ないほど最高の共通の愛であるからである。」

 敬虔と知性の融合が、なかなか味わい深い。