苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史22 異端運動

参照ベッテンソンpp195−199 堀米『中世の光と影』下p60−

1.背景

 ローマ教会の発展過程では、常に異端は出現するが、格別、司教叙任権闘争ヴォルムス協約(1122年)で終わってから教皇庁の最盛期には特に異端の運動が盛んだった。なぜか?堀米氏によれば、「ローマ教会隆盛の基をひらいた司教叙任権闘争が、他方では異端の根源をつちかったのであり、フランチェスコとドメニコの托鉢修道会は、この異端に対する防波堤としてうまれたものである。」(p61堀込「中世の光と影」)
 当時、温暖化と農業革命による大開墾と農業の発展、余剰作物によるヨーロッパ内の交易の発達と、十字軍による地中海貿易再開によって、富裕層が出現しヨーロッパ各地に都市が急増した。都市の領主である司教・大司教は大部分封建貴族の出身であり、封建貴族にとって位の高い聖職は一種の既得権だった。教会税というものがあったから、彼らは聖職を得ることによって都市からの税収を得ることができたのである。聖職にはこのように莫大な役得が伴っていたからこそ聖職売買(シモニア)が行なわれた。また、こうした封建貴族出身の聖職者たちは、めかけを蓄えるのが常態であるというほどに規律が乱れていた。グレゴリウス7世による改革は、こうして世俗化・腐敗した教会を教皇のもとに再組織することをねらっていた。叙任権闘争は、この聖職の叙任権をめぐるものだった。

 グレゴリウス改革が刷新の方法として採った方法の一つは、腐敗聖職者のとりおこなう秘蹟典礼)を無効とし、その受領を信徒に禁じることであった。これは改革導入にとって有効な方法であったが、ローマ教会の典礼の客観主義をあやうくするものでもあった。典礼の有効性という事柄の本質からいえば、これはドナティスト論争にかかわることである。
 かつてローマ帝国時代、当局からの激しい迫害下に教会が置かれたとき、迫害の厳しさゆえに裏切った者traditorが行なった礼典は無効であるというのがドナティストの主張であった。すなわち、人効説ex opere operantis(なす者から)。その時代、アウグスティヌスは礼典はその執行者の品性や熱心によらずその事柄ゆえに有効であると主張した。すなわち、事効説ex opere operato(なすわざから)を説いてこちらが正統とされた。典礼主観主義は異端であり、典礼客観主義が正統ということである。
 ところが、古代教会のような厳しい迫害下にあった時代とは、時代的文脈が全く異なる状況になったとき、「腐敗司教がなす典礼は無効である」ということを教皇庁が主張せざるをえなくなった。つまり、教皇庁の主張がかつて異端として退けたドナティストの主観主義・倫理を強調する立場になっている。これは逆転現象である。教皇庁自身が「腐敗司教の行う典礼は無効である」といって、形よりも中身が大事であるということを主張をすることは、ローマ・カトリックが自らの権威によって与えた司教や司祭といった職務や肩書き必ずしも絶対ではないのだと認めることに他ならない。ここに福音の自由説教者や異端運動が出現する土壌ができた。

2.福音の自由説教者とカタリ派・ワルドー派

 11世紀になると農業の大躍進と地中海商業の再開にともなって、商工業がさかんになり、市民の力が大きくなった。すると都市の増殖に聖職の供給が追いつかず、霊的な空白地帯ができた。また、十字軍の成功・失敗は都市住民を興奮の渦に陥れた。旧来の農村に基盤を持ち俗世からの逃避を基本とする修道院活動は、このように急増した都市住民たちを導くには不向きだった。そこに新しい福音の伝道者たちが出現する。彼らは、自発的な無所有つまり財産の放棄と、自由説教の実践をし、腐敗した司教たちを非難の的にした。こうなると教皇としては彼らを弾圧をせざるをえなくなる。

(1)カタリ派
 カタリ派は、12世紀半ばから南フランスとロンバルディアを中心にイギリス、スカンディナビアを除く全ヨーロッパに広がった異端運動である。厳しい禁欲生活とは、結婚制度を否定し、性行為によって生まれた獣の肉、ミルク、卵、チーズなどを忌避する。魚類は性行為をともなわないで増えると考えられたので食された。カトリック教会の職制とミサ・洗礼などの秘跡を否定し、教会堂やその装飾は無意味なものであると断じた。そして、彼ら自身の手による単純なパン裂きの儀式を行なう。カトリック教会は、カタリ派の教えはマニ教の影響を受けた二元論であると見た。
 カトリックは、聖ベルナルドゥスが巡回説教をして、正統教会に取り戻そうとした。カタリ派に対峙した主要な教皇はインノケンティウス三世であり、彼はフランチェスコ会を異端対策に用いた。
 しかし、カタリ派の勢いは衰えなかった。彼らは1165年には公然とカタリ派の会議をひらき、絶対的二元論に立つ教義を採択し、アルビに加えていくつかの司教区まで開設した。こうして南フランスのランドックではカタリ派カトリックをしのぐ勢いとなる。13世紀にはワルドー派と混ざる。
 12世紀半ばになると、体制側はこれをマニ教的なものだと見て、これに古い帝国法による禁圧令を適用する。1179年に第三ラテラノ会議が開かれ、カタリ派・パタリ派・謙卑者、アルノルドゥス派、ワルドー派を異端として、回勅「壊滅せんがために」ad abolendamが発せられ、異端審問法廷が設置される。13世紀にはいると、1209年教皇庁はアルビ十字軍を発動させた。重武装のフランス正規軍は南フランスに派遣され、町々を陥落させた。

(2)ワルドー派
 ワルドー派は、完全な使徒の模倣者の団体であり、信仰も元来は正統的だったが、福音宣教の使命感があまりにも強く、福音書の口語訳をつくり、禁止されても自由説教をやめなかったので、異端とされ弾圧された。やがて宗教改革が起こると、これと気脈を通じるようになった。ワルドー派は、今日なおプロテスタントの一派としてイタリアに存在する。 
 1173年、リヨンの商人ピエール・ワルドーは使徒的清貧に生きることを志し、知り合いの聖職者に福音書を母国語プロヴァンス語に翻訳してもらい、そのとおりに生きることを決心する。妻と娘たちの生活費を渡すと、ザアカイのように、不正な高利貸しによって得た巨利はこれを償い、残りの財産は全部貧者に施し、自らを「リヨンの貧者」と呼んで托鉢生活にはいる。そういう生活をするうち、少しずつ仲間が集まる。
 1179年ワルドーはローマに赴き、教皇アレクサンデル3世に謁見し、説教活動の許可を求めた。教皇使徒的生活に共感ししたが、肝心の説教活動の許可は所属教区の司教にしたがうべきことを命じた。しかし、司教は彼に説教活動をゆるさなかった。しかし、彼は人に従うより神にしたがうべきであると考え、説教活動を止めなかった。
 ワルドーらの信仰は正統信仰であったが、教会の権威を軽んじ秩序を脅かす者として異端とされた。1184年、異端禁圧令にはワルドー派の名も含まれる。結果的に、ワルドー派は反体制的な色彩を濃くすることになる。ワルドー派の特徴の一つは、清貧と純潔の生活を送っている男女は誰でも説教をする権威、権威を持つとしたこと。信徒皆祭司というプロテスタントの先駆であるとも理解され、実際、宗教改革が始まると気脈を通じることになり、今はプロテスタントの一派として存在する。

 出村彰によれば、「中世が最も中世的だった12世紀、13世紀こそ、異端運動もまたヨーロッパ各地で最も広く広がり、体制そのものを脅かすほどだったことになる。・・・13世紀末から14世紀に入ると、カタリ派やワルドー派の異端はおのずと消滅に向かう。」 (『中世キリスト教の歴史』)