苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

赤とんぼ

 きのうの記事にちなんで、通信小海95号(2001年9月発行)の記事を掲載します。

 「ただいま―。トンボとってくる。」先月末、五つになった末息子は、今、とんぼ取りに夢中である。保育園から帰ってきては、夕食時まで毎日とんぼとりをしている。朝も、である。朝食もそこそこに、外に飛び出してトンボ取りである。取ってきたトンボは家の中で放して家の中でもう一度つかまえて、窓からはなしてやる。トンボはえらい迷惑だろう。
 この子は、障害をもって生まれてきた。小耳症という障害で、片方の耳が生まれつきうんと小さい。一万人に一人という障害だそうである。多くの場合、心臓の病気と合併することが多いそうだが、息子は耳だけですんだのはめぐみだった。だが、からだのアンバランスのせいであろう、生まれて数ヶ月、寝ているときはいつも左ばかり向いていて夜泣きをするので、心配したものだったが、一度川上のおばあちゃんの整体に行った、その夜から治った。これも感謝。
 五年前、この子が小海の日赤病院で生まれたとき、心のなかに「ああ私たちもやっと神様に認めていただいたのかなあ。」ということばをつぶやいた。私たち夫婦には、重い障害を背負った子どもを育てている友人夫婦がいく組みかいる。脳性小児麻痺の息子さんをかかえた友人、自閉症児をもつ友人。ところが、その夫婦、その家族が不思議なように、なんとも心のきれいな方たちだった。胸の内に流した多くの涙が、この人たちの心を洗ったのだろうか。そして、家内とよく、「神様は、あのご夫婦だからこそ、あの子を託されたんだろうね。」と話していた。
 だから、うちに障害をもつ子が生まれたとき、思い上がりかもしれないが、そう、きっと思い上がりにすぎないのだろうが、なんだか神様から「よし。お前たちにもこの子を託すよ。」と言っていただけたような気がしたのである。
 この子はきっと悩む日が来るだろう。友達にでもからかわれたのか、今もたまに「ぼくのこっちの耳はなかなか大きくならない。いやだ。」というのを聞けば不憫である。いずれ手術のことも考えてはいるが、親としては何よりも神に祈らないではいられない。神のことばである聖書には「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる」と約束されている。この御言葉を思い出すと、心が平安になる。神様は、この子を愛して、この子に益をお与えになろうとして、このハンディもお与えになったのだと信じられるからである。
 壁にぶつかって、あなたも人知れず涙することがあるかもしれない。「なぜ、こんなことが?」と天に向かってつぶやきたくこともあるかもしれない。しかし、人生の不条理に向かって「なぜ?」と問うても答えは返ってこない。だが、主イエスのもとに来るならば、苦しみや悲しみも、父なる神はきっと益と変えてくださる。あなたも主イエスのもとに来て、この人生いっしょに歩みませんか。

「かなしみ尽きざる憂き世にありても
 日々、主と住まえば、御国の心地す。
 ハレルヤ 罪とが消されしわが身は
 いずくにありても御国の心地す。」
『聖歌』より


追記:息子は小学5年生、6年生で手術をして、耳介形成をしました。あのころ五歳だった息子は今は中学2年生。身長は165センチを超えました。