苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史19 十字軍(その3)

3 民衆の十字軍運動
(1)民衆十字軍
  ウルバヌス2世の計画では軍隊の出発は1096年8月15日を期していた。しかしそれより数ヶ月前に教皇の計画に入っていなかったグループ、すなわち農民たちや貧しい下級騎士たちが勝手に集まってエルサレム目指して出発してしまった。彼らはアミアンの隠者ピエールを指導者とあおいで聖地を目指した。このグループはなんと(資料によってずいぶんちがうが)2万人ないし10万人という規模に膨れ上がっていた。しかし、その多くは戦闘技術などまったく知らない人々で、子供や女性も多く含まれていた。これを「民衆十字軍」という。十字軍とはいっても彼らの多くは巡礼というくらいの気持ちで参加していたのが実情であった。
  民衆十字軍は人数のみ多く、統制がとれていなかった。聖地にたどり着く前のヨーロッパの国を移動している時点でトラブルが頻発する。彼らはそもそもエルサレムがどこにあるかを知らず、まだヨーロッパの町町をたずねるたびに「ここはエルサレムかね?」と問うた。また、彼らは途中の町々で食料や水、各種の物資を得ようとし、無料ではなくとも、低価格で必需品を購入できるものと考えていたが、これが原因となって民衆十字軍と滞在先の人々はしばしばいさかいを起こした。
 一部の者はハンガリー領内で略奪行動を行ったため、ハンガリー兵の攻撃を受けた。同じことがブルガリアビザンティン帝国領内でも繰り返された。これによって参加者の四分の一にものぼる人々が殺害された。生き残った人々は8月にコンスタンティノープルにたどりついた。しかし、突如あらわれた大人数の外国人集団に、コンスタンティノープルの市民との間の緊張が高まり、皇帝アレクシオスは民衆十字軍の一行を首都から追い出して小アジアへ送り出した。
 小アジアを移動は困難を極める。民衆十字軍はまもなくセルジューク朝領内に入ってギリシア人の農村を略奪しながら首都ニカイアを目指したがセルジューク朝軍精鋭騎兵部隊の包囲と攻撃を受けて、飢えと乾きに苦しみなすすべもなくほとんどが殺害され、女子供は奴隷として売られてしまった。

(2) 反ユダヤ主義との結びつき
 十字軍運動の盛り上がりは反ユダヤ主義を高まらせた。ヨーロッパでは古代以来、反ユダヤ人感情が存在していたが、十字軍運動が起こった時期に初めてユダヤ人共同体に対する組織的な暴力行為が行われた。1096年夏、1万人のドイツ人たちはライン川周辺のヴォルムス、マインツユダヤ人の虐殺を行い、ケルンでも虐殺を行なった。彼らはユダヤ人にキリスト教に改宗するか、ユダヤ教徒のまま死ぬかの二者択一を迫った。ユダヤ人の多くは改宗の屈辱よりは誇りある死を選んだ。
 ただし、指導者や聖職者たちがユダヤ人虐殺をあおったようにとらえるのは誤りである。実際には町や村の指導者たちはユダヤ人をかくまい、聖職者はユダヤ人への迫害を禁止しており、迫害の実行は民衆レベルで行われた。教皇庁もヨーロッパに住むユダヤ人やイスラム教徒への迫害を再三禁止しているが、ユダヤ人への迫害は十字軍運動の盛り上がりのたびに繰り返されることになる。

(「ヴ・ナロード」を唱えた素朴な共産主義の影響か、現代は、庶民大衆というものを善意の集団というふうにとらえる傾向がある。先の戦争のときも、大衆は好戦的気分に熱狂した。大手新聞社が好戦的記事を載せるようになったのは、反戦的記事を書くと、購読者数が激減してしまったからであったと聞く。戦争の大衆の熱狂は、ワールドカップの際の大衆の熱狂に類するものである。大衆は免責されるわけではない。聖書は民衆が熱狂して「イエスを十字架につける」と連呼したと記している。)