苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史17 十字軍(その1)

序 十字軍の問題は高校生で世界史を学んだ頃から気になっていた。初めて増永牧師にお会いしたとき投げかけた質問の一つは、「キリスト教会は十字軍の犯した罪について、いったいどう考えているのか?どう責任を取るのか?」ということだった。クリスチャンになってから、クルセードということばが用いられていることを知った。ビリーグラハム・クルセードという伝道団体や、キャンパスクルセードという団体があった。当初、クルセードということばが十字軍を意味することに気づかなかったが、そうだと気づいたときに、たいへん違和感を感じた。また「祈りの十字軍」という運動もあった。
 2003年イラク戦争で、ブッシュ大統領が「クルセード」ということばを使ったことが諸国から非難の的となった。ブッシュはこの用語によって、欧米キリスト教諸国民を巻き込もうと考えたのであろうが、イスラム諸国にとっては十字軍とは野蛮で凶暴な侵略者集団にすぎなかったことをイスラム圏の人々はもとより、欧米の知識層も認識していたのである。
 中世の年代記作者は、十字軍を中世騎士の華麗なるロマンというイメージで描いた。美しいよろいかぶとに身を固め、色とりどりの旗指物を翻して駿馬にうちまたがり、はるかパレスチナの戦場を疾駆する騎士たちが、群がるイスラム教徒の大群を打ち破ってゆくという絵巻物として。そこに登場する聖地巡礼者たちは、王侯・貴族の戦士たち、無名の騎士、修道騎士、女性や子どもたちであり、対するマホメット教の輩は多くは悪逆非道であるが中にはサラディンのような敵ながら天晴れな武将もいるという具合。
 ブッシュ大統領にとって、十字軍というのはこの種の正義の戦いの勇猛な英雄・騎士たちの物語というものだったのだろう。西部開拓の騎兵隊たちによるインディアン虐殺がかつては、英雄的な行為としてハリウッドで描かれていたのと同じである。日本の福音派キリスト教会は、その歴史認識において米国福音派歴史認識における無反省の影響を受けていることを自覚すべきである。クルセードという名称を団体名として平気で使うようでは、現代世界に通用しない。イスラム世界に伝道などできるわけがないし、東方教会との対話もできるわけがない。
 十字軍は、1096年から約200年間に渡って行われた。当時の西欧側から見れば、聖戦とされたが、イスラム諸国や東欧諸国に攻め込んだ残虐非道な侵略軍である。
 以下、十字軍に関するノートは、おもに橋口倫介『十字軍』、アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』およびウィキペディアに拠って記している。

1. 社会的・経済的・宗教的背景―――大変動の世紀
(1)気候の温暖化と農業生産力向上と人口増加(中世的秩序崩壊図解参照)
 1045年ごろについて年代記作者は次のように描写する。「不吉な死の抱擁は、高貴な人と庶民の別なく、最下層の人々まで多数をむさぼり食い、・・・全世界のほとんどすべての人々がぶどう酒と小麦の不足による飢えに耐えていた。」(ラルウ・グラベール)。11世紀前半まではヨーロッパは雨量が極度の多く、その上、寒かった。人口については、極度の過疎で西ヨーロッパの人口密度は1平方キロメートルあたり2人ないし3人にすぎなかった。
しかし、11世紀後半から気候が温暖化し、かつ、農業革命が起こり、大開墾が行なわれるようになった。それは蹄鉄の使用、農耕馬の使用、有輪重犂、三圃制農法、水車の普及である。大開墾と呼ばれるヨーロッパでの耕地拡張事業のピークは12世紀末。生産力が著しく向上し、食糧が多量に供給されるようになった。
 結果、出産率が高まり、乳幼児や老人の死亡率が下がり、かつて過疎状態だった西ヨーロッパの人口は増加する。人口増加と耕地の拡大は循環し、経済的繁栄をもたらす。12世紀の武勲詩「出家のギョーム」の一節
「今日ほど多数の人々が大地に満ち、かくもよく大地が耕されたことはない。かほど豊かな領地を、かくも多数の城を、はたまた裕福な都を、この地上に見た者はない。」

(2)社会的身分の流動化
①農民
 食糧が豊かになり人口が増加すると、社会的身分の流動化が起こる。すなわち、地域ごとでの自給自足で精一杯だった状態が、食糧に余剰ができると、それを他の地域に売ろうとする目端の利く人々つまり商人層が出現し、彼らは富を得て都市を形成し、都市の富裕層を形成する。中世にはいりイスラム進出で地中海貿易は絶えて久しく、寒冷化でヨーロッパは食糧不足で内陸の商業も絶えていたが、温暖化・食糧増産・人口増加によって商業が復興し、都市が形成される。そしてこれは後に大学の出現をもたらす。
 都市ができると農村からは都市に成功を夢見て出てくる人々が生じる。出稼ぎ・出世主義の空気が出てくる。むろん彼らのほとんどは望んだような富を都市で得ることはできず、貧困な労働者層となる。ウルバヌス2世の演説原稿そのものは残っていないが、研究者がまとめたものには、彼らに貧しい西ヨーロッパを捨てて「乳と蜜の流れる地」を目指してゆけという一攫千金を夢見させる文言が含まれている。「あなた方がいま住んでいる土地はけっして広くない。十分肥えてもいない。そのため人々はたがいに争い、たがいに傷ついているではないか。したがって、あなた方は隣人のなかから出かけようとする者をとめてはならない。彼らを聖墓への道行きに旅立たせようではないか。乳と蜜の流れる国は、神があなたがたに与えたもうた土地である。」
「11,12世紀の西ヨーロッパ社会には、単調な日常生活から脱け出そうとする衝動や、お祭り騒ぎにうかれ出そうとする欲求がみなぎっていた。」(橋口p60)
 十字軍に参加した人々の多くは、時代は隔たるが、成功を夢見てヨーロッパから新大陸を目指した人々、あるいは、幌馬車に乗って西部を目指した人々、日本なら戦前に成功を夢見てふるさとを捨てて満州に渡った人々、戦後成功を夢見て南米に渡った人々と同じような動機をも持っていたのである。

②領主・貴族階級は
 また、貴族(領主)階級においても、幼児の死亡率が下がると、子どもたちが増える。ゲルマン的伝統では遺産は分割され相続されるので、領主たちの領地は細分化した。そして領土のない貴族を領主は食べさせるために、領土(庄園)をめぐってこぜりあいの戦争が頻発するいわば戦国時代となっていた。
また、分割相続も限界に達すると、相続にあぶれてしまった騎士たちが力と時間をもてあます。西欧には戦争エネルギーが充満していた。次男坊以下の貧乏貴族たちも、乳と蜜の流れる地での一攫千金を夢見る。

(3)宗教的動因――巡礼・免償・殉教者
しかし、決して経済的理由だけで十字軍を理解できるわけではない。そこには、熱烈な宗教的な動機があった。
①免償・殉教・聖遺物蒐集を求める巡礼
当時十字軍という呼び名は無く、単に「十字をつけた者」と呼ばれた。「十字軍」という言葉が最初にあらわれるのは第1回十字軍の百年ほどあとのことである。彼らは、聖地を奪回のためにイスラムと戦うという目的のほか、神の前での罪の償いの免除を求めてエルサレムへ向かう巡礼者という意識も強かった。第2回十字軍のルイ7世はその典型である。きまじめな彼は、奔放な妻との不和に良心の呵責を覚えつづけ、従軍したといわれる。
もともと十字軍は一部の騎士に対する呼びかけであったが、やがて膨大な人数を動員して移民活動のような状況を呈することになった。このことからわかるのは十字軍への呼びかけというのは当時のキリスト教徒にとってとても魅力のある言葉だったということである。
戦闘に参加したものに免償が与えられる、あるいは戦闘で死んだものが殉教者となりうるというのは十字軍運動の中で初めて生まれた概念であった。そして十字軍に参加することで与えられる免償は、エルサレムへ詣でるという巡礼者としての免償とキリスト教戦士として戦うという免償の二重の意味があるため、生き残っても死んでも、どちらにせよ免償を受けられる。また、下級騎士たちは封建制度の息苦しさから逃れようとし、農民や職人たちも退屈で困難な日常から逃れたいという気持ちをもっていた。このように宗教的なものから、世俗的なもの、心理的なものまでさまざまな人々がさまざまな動機によって十字軍運動に身を投じたのである。
 聖地巡礼という習慣は、もともとヨーロッパの敬虔な人々にとっての大切なロマン、夢であった。また、聖遺物蒐集という風習があった。コンスタンティヌス時代から流行し始め、キリストゆかりの遺品や道具類、聖母マリア使徒や諸成人にまつわる聖遺物への熱烈な愛好の嵐が広まっていた。聖遺物蒐集というたのしみを予測にいれずに十字軍に参加した人はひとりもいないだろうと言われる(橋口p9)。

出エジプトと十字架への道行き
 旧約聖書の引用。年代記記者たちは、十字軍遠征記のいたるところに旧約聖書を引用する。「十字軍時代の人々は旧約の世界に共鳴し、その登場人物の心境に直感的なシンパシーをいだいている。したがって、かれらの東方巡礼は中世のエクソダスでなければならない。そうだとすれば、このエクソダスには全キリスト教徒が参加しなければならないであろう。」(橋口p35)彼らのエルサレム城でのイスラムユダヤ教徒たちの大虐殺は、旧約聖書ヨシュア記に見る聖絶を思想的な背景としていると理解すべきであろう。
旧約聖書をいかに受容するかという、重要な課題がここにある。
 また、十字軍における宗教的情念は、十字架を背負ってキリストの十字架の苦悩を追体験するという面もあった。実際、聖地エルサレムへの旅は苦難に満ちた試練の連続であった。自ら、キリストの受難を味わうという、そのような敬虔・霊性も十字軍の一面。

ローマ教皇の権威
 だがどんなにこのような背景があったとして、ヨーロッパ全体を巻き込んで軍隊と民衆をエルサレムに送ったのは、なんと言ってもローマ教皇の絶大な影響力である。カノッサの屈辱(1077)に見るように、この時代、教皇の権力は諸王国・領主たちも動かすほどに絶大なものとなっていた。第一回十字軍の成功によって、その威光はさらに強化される。