苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

罪人が罪人をさばくシステム


 「さばいてはなりません。あなたがたもさばかれないためです。」と主イエスはおっしゃった。これは人には寛容であれという、個人の生き方を教えているところであって、裁判所を否定することばではない。イエスご自身、ユダヤとローマの裁判に服されたし、聖書は、上に立つ権威のひとつとして裁判所の働きを認めている。
 けれども、さばく働きにたずさわる裁判官も検事も警察も、私たち同様、残念ながらみな罪ある人間であることに、司法という働きの難しさがある。罪ある私たちには、どうしても利己的で自己正当化する傾向があるゆえに、自分の都合がよいようにさばきを曲げる傾向があるからである。
 このところ、厚生省の村木厚子さんを陥れようとした、大阪地検特捜部による証拠改ざん冤罪事件という話題が新聞紙上をにぎわしている。しかも、証拠改ざんをしたのは、無能な検事ではなく、「エース」と呼ばれた検事の中の検事であることが、問題の根の深さを物語っている。つまり、問題は担当検事一人の問題ではなく、検察というもの自体の問題なのである。
 ふつうの検察の仕事は、警察が逮捕・捜査して書類として上がってきた事件を、ほんとうにそれが起訴に値するものかどうかをチェックすることである。警官も自己正当化する罪人であるから、自分が逮捕した被告は、なんとしてもクロとしてしまいたいという情念が働く。だから、警察に正しい取調べができるとは限らないので、検察が客観的にその書類を調べて、起訴か不起訴かを判断するわけである。
 ところが、地検特捜部には、このチェック機能がない。特捜部は捜査員をたとえば東京地検なら四十名も抱えており、被疑者を自分で逮捕できる。マスコミに事前に情報を流して、「あいつは悪徳政治家だ」「悪徳官僚だ」と世論を形成してから逮捕してしまった以上、「検察の威信にかけて」、被疑者をなんとしてもクロにしようとする。複数の体験者の証言によれば脅迫とウソを駆使した取調べをして、検察のつくった調書にむりやり署名捺印させるそうだ。
 特捜検察の欠陥は、彼らの捜査・取調べ・手続きが適正なものであり、起訴に値するものかどうかを客観的にチェックする外部機関を持っていないことである。しかも、日本の裁判所における有罪率は九十九・八パーセントという世界でも類のない異常な高さである。検察にあげられたら、それでほぼ有罪確定である。村木さんは例外中の例外だ。
ニュースによれば、最高検は今回の事件を、担当検察官とその直属上司の問題として片付けようとしているようだ。だが地検の問題を身内の最高検が調べるしかないというシステム自体が欠陥品である。かりに担当者を告訴し、検事総長が詰め腹を切っても、冤罪は繰り返されるだろう。
 アダム以来、人はひとりのこらず罪人である。だからこそ、神はこの世界がカネと暴力の支配する世界になり果ててしまわないために、裁判所をお立てになっている。しかし、聖書から見れば、その裁判官・検察官・警察官となる人間自身も罪に汚れた人間である。だから、その権力が暴走していないかを常に客観的にチェックする制度を設ける必要がある。

「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ三:十―十二)

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在してい
る権威はすべて、神によって立てられたものです。」(ローマ十三:一)

(通信小海2010年10月号より)