苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史16 司教叙任権闘争と「ヨーロッパの確立」

「ヨーロッパ」とはどういう歴史現象なのか?そのことが、わかります。ただし、ここでいうヨーロッパとは西ヨーロッパを意味します。

 参照>ベッテンソンp162、p174− 

 751年小ピピンは王の立場を精神的に権威づけることをねらって、教皇ステファヌス二世に油注がれて王位についた。ピピンは、そのお返しとしてラヴェンナ教皇領として寄進。800年には、教皇レオ三世はフランク国王シャルル(カール)に冠を授けて、滅亡していた西ローマ帝国を復興させ、東ローマ帝国の干渉を退けた。後に、これが神聖ローマ帝国と呼ばれる。フランク王国ローマ教皇は、このように権力と権威を依存しあっていた。しかし、やがて両者の間にあつれきが生じてくる。

(1)背景
a.コンスタンティヌス以来の伝統VSアンブロシウス以来の伝統
 シャルルマーニュの戴冠のときから、ヨーロッパは皇帝となったフランク国王と教皇の合作である。しかし、この二つの権力の間には、相互の権限について一致できないところがあった。教皇は、自分が油注ぎと戴冠によって皇帝をつくりうると考え、他方、皇帝は自ら皇帝になったのであり、教皇はそれを追認したにすぎないと考えた。
 シャルルマーニュ死後、王国は息子たちに三分割されてしまう。ローマ皇帝の冠を再びかぶるのは、オットー1世(大帝)(912-973)である。彼の父、ハインリヒ1世は辺境の防備に力を注ぎ、外敵の侵入を撃退して、国内の結束を固めた。また「ドイツ王国」の名称を用いたので、ハインリヒの即位をもって国家としての「ドイツ」が成立したと見なされる。父の死後、子のオットー1世が諸侯の選挙によって東フランク王に選ばれた。
 オットー1世は、即位すると、国家の統一に力を注ぎ、対外的には、933年と特に955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃ち、オストマルク辺境領を置いてその後の侵入に備えた。国内では諸侯を抑えて中央集権体制の確立に努めた。教会や修道院領を王領とし、司教や修道院長の任命権を握り、聖職者を国王の官僚とし、彼らを王権の支柱とする政策「帝国教会政策」を採用して中央集権体制の確立をはかった。帝国教会政策を進めるために、3回にわたるイタリア遠征を行ない。2回目の遠征の時、962年に教皇ヨハネス12世から「ローマ皇帝」の冠を授けられ、「オットー大帝特権状」をもって教皇の世俗的権力を確認し、皇帝、教皇間の関係を規定した。これが「神聖ローマ帝国」(962〜1806)の起源である。この国は最初は単に「ローマ帝国」と呼ばれていたが、13世紀の中頃以後「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになる。
 ここにドイツからイタリア中部にまたがる大帝国が出現し、その後歴代ドイツ王は代々「ローマ皇帝」の称号を受けて、「イタリア政策」にエネルギーを注いだため、ドイツ国内はまとまらず、近世・近代の中央集権化についてはフランスやイギリスに遅れをとることになる。ドイツ国王オットー大帝はシャルルマーニュの皇帝権を復興してから、東ローマ皇帝と同じ立場で教皇を臣下としてあつかってきた。オットーは教皇廃位する実権を持ち、実際に、その権限を用いた。

 他方、ローマ教皇グレゴリウス7世はアンブロシウス以来の伝統にたちもどって、皇帝の教会支配を批判するようになる。グレゴリウス改革である。ここにコンスタンティヌス大帝以来の皇帝教皇主義と、アンブロシウス以来の教会の皇帝からの自由との対立が生まれた。

b.経済的背景と司教の叙任権
 古代末期以来、私領に建てられた聖堂(私有教会)や修道院が増えていったが、その種の聖堂の聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は土地の領主が持っていた。また、俗権が強大化していくと、その地域の司教の選出に対しても影響力を及ぼすようになっていった。これは少なからぬ教会財産の管理権を握ることと直結していたので世俗権力にとっても重要であった。中世に入ると、教皇権が伸張する中でこの叙任権をめぐる争いが頻発するようになっていった。
 特に神聖ローマ帝国内では皇帝が司教たちの任命権を握って影響力を強くしていくことで、教皇選出においてまで影響力を持つに至った。しかし、俗権による叙任権のコントロールは聖職売買(シモニア)や聖職者の堕落という事態を招く一因ともなった。(シモニアというのは、使徒の働きに登場する魔術師シモンが、使徒権を金で買おうとして処罰されたあの事件からとった名称。英語ではシモニー。聖職に名誉や経済的メリットがくっついているからこそ買いたい人がいるわけで、貧乏牧師職など誰も買ってくれない。まことに「貧しい者は幸いである」)
 10世紀に創立されたクリュニー修道院の俗権からの影響力を否定した改革運動や俗権による叙任権を否定した教皇レオ9世、聖職者の綱紀粛正をはかったグレゴリウス7世による教会改革は教会に叙任権を取り戻そうという流れを生んでいった。ここに至って皇帝と教皇の間で叙任権をめぐる争いが行われるようになった。


(2)カノッサの屈辱
 教皇グレゴリウス7世は、教会改革の一環として皇帝・国王などが行なう司教の叙任を、教会法にもとり、教会を腐敗させる原因であるとして、禁止した(1053)。
 司教叙任権は国王のもっとも重要な伝統的権利だったので、ドイツ国王であり神聖ローマ皇帝であるハインリヒ4世は反対し、ドイツ司教会議に命じて教皇廃位を決議させた(1076)。→ベッテンソンp162
 教皇はこれに対して、ハインリヒ4世を破門し、臣下たちの彼に対する忠誠義務を解除した(→p164)。封建諸侯たちもまた、教皇の要請にこたえて国王に背き、一年以内に破門が解除されない場合は国王を廃位すると決議した。ドイツ国内の封建領主たちの中には、中央集権化を図る国王に対する不満があったのである。グレゴリウス7世はそこにつけこんだ。
 そこで1076年の暮れ、ドイツ国ハインリヒ4世(1056-1106)は、その家族をわずかな従者をともなっただけで、厳冬のアルプス、モン・スニ峠をこえてイタリアに入り、教皇グレゴリウス7世のいるカノッサ城に赴き三日三晩、はだしで雪の中に立ちつづけて破門の許しを乞うた。
 赦しを乞われれば許さざるを得ず、教皇グレゴリウス7世は国王の破門を解く。すると、ハインリヒ4世はすばやくドイツ国内の反対派を倒し、今度は教皇をローマのアンジェロ城に囲んだ。教皇は再度ハインリヒ4世を破門するが、今度は教皇支持派がドイツ国内から掃討されていたので、すぐには機能せず、脱出するもののサレルノで憤死した。このたびは、ハイリヒ4世の勝利ということか。しかし、その後、ドイツ国内にハインリヒ4世に対する反対派が起こり、国王は最後には子にも背かれて失意のうちに死ぬ。

(3)ヴォルムス協約(1122年)と「ヨーロッパの確立」 →ベッテンソンp172
 幾度か皇帝側と教皇側の交渉が設けられたものの、両者の間での微妙な駆け引きが続いた。しかし、ハインリヒ4世の後を継いだハインリヒ5世は、ドイツ内での勢力基盤が安定しなかったこともあり、この叙任権闘争の決着を急いだ。最終的には、1122年に結ばれたヴォルムス協約において、聖職叙任権は教皇が有するが、教会の土地、財産などの世俗的な権利は王が受封するという妥協が成立し、一応の解決へと至った。
 堀米庸三は言う。「この協約の骨子は、教会権限を俗権と教権とにわけ、教会領とこれに付属する権利を含む前者を皇帝が、司教の聖職的権限である後者を教会がにぎるということで、「神のもの」と「皇帝のもの」をわかったのである。司教は教会法にのっとって司教教会参事会によって選ばれ、ドイツの場合は、まず皇帝が、選挙された聖職者に俗権を封与し、その後、管区大司教の手により司教に叙任される。イタリアの場合は、その逆に、被選挙者は、まず管区大司教の叙任をうけ、皇帝の俗権封与がこれにつづく。こう区別する意味は、選挙されても叙任式をへないものには、事情により俗権封世を留保することができるので、皇帝はドイツ国内の司教に関しては、実質的にその任命を拒否できるわけだ。此れに反し、いったん叙任されたものはすでに司教であり、これに俗権封世を拒むことはできない。つまりイタリアでは教会が完全に司教叙任権を掌握したことになる。」
 「しかしウォルムスの協約には、これまでの皇帝権の本質を根本から変えた、もうひとつの条項が含まれていた。それは皇帝がこれまでとりおこなってきた『指輪と司教杖』による司教叙任権の放棄である。指輪と司教杖は司教の司牧権をあらわす象徴であり、その放棄は皇帝の精神的権威の放棄なのである。皇帝は今後も法王のほどこす塗油の秘蹟により、一面聖職者的人格をもつ精神的権威でありつづける。しかし皇帝は今後もはや教会の上にたつ権威たることをやめるのである。 
 こうしてオットー一世によって復興されたシャルルマーニュの皇帝権は大きく変質する。それはシャルルマーニュによって西方に再生させられたコンスタンティヌス大帝の皇帝権の終焉なのである。・・・東ローマ的皇帝法王主義は、ついにヨーロッパに根付かなかったのである。ヨーロッパの成立にあたって法王権が執拗に追求した、この新世界の支配に関する主導権への要求は、ここに実を結んだ。ヨーロッパは今後同等の立場にたつ皇帝権と法王権を二つの軸として動いて行くことになる。これをヨーロッパの確立とわたしはなづけるのである。」(堀米『中世の光と影』下pp20-22)

 (堀米庸三かっこいいですねえ。「これをヨーロッパの確立とわたしは名づけるのである。」偉大な碩学なればこそのことば。)