苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史14  ヨーロッパの成立と叙任権闘争

1. ピピンの寄進
 「①フランク部族は、ヨーロッパをイスラムの侵略から救い、②ローマ教会をランゴバルドと東ローマの圧迫から解放し、③さらにシャルルマーニュ西ローマ帝国復興によってヨーロッパの運命を決定したものとして、中世史のなかで特別な位置を与えられている。 」この三つがフランク部族の事業だった。
 初期はメロヴィング王朝がこの部族を支配する。初代王はクローヴィスである。残忍にして果断、狡猾なゲルマン的気質にあふれた人物だったといわれる。彼はガリア(今のフランス)を統一し支配した。しかし、やがてメロヴィング朝は弱体化して、形ばかりのものとなる。実力を蓄えたのは宮宰ピピンピピンイスラムをトゥール・ポワチエで止めた英雄カール・マルテルの子であり、シャルルマーニュの父にあたる。751年、ピピンが司会をするソアッソン会議は、メロヴィング朝最後のフランク王ヘルデリク3世の廃位を決議するが、その決議を促したのは教皇のもとから使わされた二人の使者の持ってきた教皇ザカリアス(741-752)のことばだった。「力なき者が王であるよりは、力ある者が王であるべきである。」
 これはピピンが十分に根回しをした会議だった。ピピンの家柄は7世紀から三代にわたってフランクの中心であって、事実上の王であり、他方メロヴィング朝の王は飾り物にすぎなくなっていた。年の初めに「百姓が御する牛くびきの戦車に乗ってでかけ、群臣の前で王国の幸を祈る」だけのものにすぎなかったのである。が、それでも王朝交代ということは容易ではなかった。それを可能にしたのは、ローマ教皇の権威だったのである。

 権力と権威はちがう。権力(武力・財力)だけに頼って長期にわたる安定的な統治を行なうことはできない。支配者は、支配される人々の側の自発的な服従を必要としている。その自発的服従を求めうるための価値は二つある。一つは伝統価値であり、もう一つは宗教的価値である。この二つの価値が権威の所在である。この権威は、武力といった物理的力によって獲得することはできない。
 クローヴィスに始まる王統にはすでに伝統的価値があり、フランク族の人々はこれに服従していた。実力はなくなっているといっても、その王統を絶やすことは伝統的価値を否定することを意味した。あからさまにそれをすれば、メロヴィング朝をかつぐ人々によって逆にたたかれてしまう。そこでピピンは、ローマ教皇というより長い伝統的価値と宗教的権威を利用して、自ら王となって王朝の交代を成し遂げたのだった。カロリング朝の始まりである。
 フランク王となったピピンは、ランゴバルドを破ってラヴェンナ以下の征服地を返還させて、中部イタリアの土地をローマ教会に寄進した。「ピピンの寄進」と呼ばれ、ローマ教皇領の基礎となる。この一連の動きに、ローマ教会とフランク王国の関係が典型的なかたちで現れていると言えよう。ローマ教皇フランク王国と提携することによって、ランゴバルドの圧力を退け、東ローマから独立しようとしているのである。フランク王は、自らの王権の後ろ盾として、ローマ教皇の宗教的権威を必要としていたのである。

 (教訓:伝統を否定する下剋上で成り上がった戦国武将たちも、天皇から伝統的価値としての称号を求めた。信長は右大臣、秀吉は関白太政大臣、家康は将軍という称号を天皇から受けた。特に彼らが欲したのは武家の棟梁としての将軍の名であった。江戸幕府の権力と天皇の権威の関係に似ている。
 明治政府は、天皇の伝統的価値に加えて、国家神道を作り出して宗教性を帯びることによって民心を掌握し安定を獲得することをねらった。天皇聖徳太子以来、仏教に帰依していたのに、明治以降、国家神道のいわばご神体にされてしまった。ローマ13章からいえば、国家権力のの務めは世俗領域に限定されるべきであり(警察・徴税)、国家権力が強く宗教性を帯びると自己神格化に走る(黙示録13章)
 現代の日本でも、財と権力を得た人々が最後に欲しがるのは、勲章をもらうなりして、天皇と関係を結ぶこと、である。天皇は日本における伝統的価値の象徴とされているわけ。叙勲とはそういうこと。権力と財力と名誉がこの世における三つの力と言えよう。江戸時代には権力は武士が、財力は承認が、名誉は天皇・公家が持ったと言うふうにしばしば指摘される。)

2.コンスタンティヌスの寄進状(Constitutum Donatio Constantini)
ベッテンソンpp157-160

 これは、ローマ教皇ステファヌス2世(在位752年-757年)ないしその側近によって8世紀中ごろに偽造された文書(偽書)。かつてはローマ皇帝コンスタンティヌス1世教皇領を寄進した証拠の文書とされていた。その内容は『自分(コンスタンティヌス)はハンセン病を患っていたが、ローマ教皇シルウェステル1世(在位314年-335年)による洗礼を受けた後、治癒した。その感謝の印として、ローマ司教(教皇)に自分と等しい権力を与え、全西方世界(ラテラノ宮殿やローマおよびイタリア全土と帝国西部の支配権など)を委ね、自分はコンスタンティノープルに隠退する』というものであった。8世紀当時、東ローマ帝国からの独立性を主張するために造られたと考えられている。
 800年のフランク王国カール大帝への戴冠も、この偽書を根拠として行われた。中世におけるローマ教皇領と神聖ローマ皇帝との「叙任権闘争」の際にも根拠とされ、また東方教会との対立問題ではカトリック教会の独立性を主張するために引用された。11世紀以後も、教皇の世俗権と皇帝に対する優位性(「世界はローマ教皇に帰属する」という主張)の根拠として使用された。
 15世紀にイタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラが古いラテン語文献に使われている用法とは異なる点があることに気付き、『コンスタンティヌス寄進状の偽作論』を発表した。その後幾度もの論争を経て、18世紀に偽作であることが確定した。