苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史13  イスラムの進出とヨーロッパ史への影響

 もう少し前、10の後半で述べておくべきだったイスラム進出について、ここに記す。

(1)イスラムの進出のすさまじさ
 ローマ帝国にとって、地中海はいわば内海だった。経済的なことを言えば、ローマをはじめとして、地中海に面するそれぞれの都市地域は、背後にその地域を養うに足る農業地帯を持ってはいなかったので、地中海全体として物資のやり取りをする経済圏として成り立っていたのである。たとえば、ローマは対岸の北アフリカから麦を輸入することで食糧を得ていたのである。また東ローマも、エジプトからシリアからの経済によって潤っていた。
 また政治的には、地中海があってこそ東ローマは海軍力をもって西方に支配力を及ぼすことができた。地中海は、帝国各地を隔てるのでなく結びつける役割を果たしていた。一般に、海というものは隔てるのではなくて、つなぐものだという認識は歴史理解の上でとても大切である。トラックや鉄道のない時代、陸路では多くの物資も多くの人をも運ぶことは困難であった。大きな川や山があればなおのことである。しかし、海に舟を浮かべれば大量の物資や兵員を運ぶことは古代であっても容易だったのである。
 ところが、7世紀からイスラム教のすさまじい進出が始まる。預言者ムハンマドに鼓舞されたアラブ人たちは、後継者(カリフ)アブー・バクル(632−634)、オマール(634−644)統治下のわずか12年間で、東ローマからエジプト、シリア、パレスチナの諸地方、キプロスクレタ、ロードスの諸島を手中に収め、大帝国ペルシャを倒してしまった。ローマ帝国ペルシャ帝国は長期間にわたる攻防戦ですでに疲弊していたことが一因である。また、ローマの属州諸地方はユスティニアヌスの重税と不寛容な宗教政策に不満だったのも一因である。イスラームは宗教政策では寛容で、被征服者が他宗教にとどまることは許された。ただ、イスラームを信奉しないかぎり政治上権利がなく、税を負担しなければならなかった。「コーランか剣か」というのは虚構であって、実際は、「コーランか税金か」であった。被征服民は、このイスラームに関心をもって自発的改宗者が多かったという。あまりに多すぎたので、改宗者からも徴税するようになったほどである。
 オマールの後、アラブ人の内部抗争でイスラームの拡大は一時停止するが、ウマイヤ朝(661−750)が成立すると、再び征服が始まり、東方では中央アジアとインド内部に及ぶ。西方ではカルタゴを中心とする北アフリカローマ帝国属州である。この地域の人々もユスティニアヌスの苛烈な宗教政策(異端ドナティスト摘発)と、重税でローマ帝国の支配に不満をもっていた。
 708年までにイスラムの将軍タリクは北アフリカ征服を完了し、711年ジブラルタル海峡をわたる。ジブラルタルとは「タリクの岩」という意味である。数年で西ゴート族を征服し終わり、720年イスラム軍はピレネー山脈を越える。しかし、732年、名高いトゥール・ポワチエフランク族カール・マルテルと戦い、ここで主将を失ったために退くことになった。しかし、南フランスの海岸地帯はリヨンに至るまでイスラムの略奪を経験し、解放されるのは752年以後のことである。トゥ−ル・ポワチエの戦いでカール・マルテルが破れていたなら、ヨーロッパはイスラムに呑み込まれていたわけで、そうしたら歴史は大きく変わっていた。


(2)イスラム進出と地中海世界の分裂
 9世紀にはベレアル諸島からシシリーにいたる西地中海の島々はすべてイスラムの手に落ちた。14世紀のイスラムの歴史家イブン・ハルドゥーンのことば「いまやキリスト教徒は、地中海に板きれ一枚浮かべることができなくなった。」地中海はもはや周辺地域を結ぶものではなく、信仰と文化を分断するものとなった。地中海の北はキリスト教であり、南はイスラム世界である。さらに、地中海世界は東西にも分断されてしまう。
 東ローマの影響は西地中海に届かなくなった。イタリアでは、それまで日常的に用いてきた東の物産が姿を消す。エジプトのパピルスは羊皮紙で代用するほかなくなり、胡椒などの香辛料はなくなり、オリーブ油も少なく、絹は貴重品となってもっぱら羊毛と麻にたよることになる。
 東ローマ帝国の威光は、決定的に西方世界に及ばなくなってしまう。すでに西方教会は東ローマの対ランゴバルド問題における頼りなさと、宗教政策のうるささを感じていたが、イスラムの進出によっていよいよ西方は、自らの足で立ち、自らの手で戦わねばならなくなるのである。それは、ローマ教会が、イスラム進出をトゥール・ポワチエで食い止めたフランク王国と結んでヨーロッパ世界を築いていくということである。