苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史11 キリスト論論争と西欧の成立・東西教会の分裂(その1)

 まず、背景と歴史的影響の概観をしておく。聖画像論争とフィリオクエ論争を通して東西教会の分裂が決定的になっていく。初代教会以来、「教会はひとつである」という意識は強かったものの、もともと、東方はギリシャ語圏であり、西方はラテン語文化圏であった。神学的傾向も、東方は哲学的傾向が強く、西方は法学的実践的傾向が強かった。「教会と国家」のかかわり方も東は皇帝教皇主義であり、西は教会の自律性が強かった。(離れるべくして離れたということか)

(1)イスラム進出と聖画像破壊論争(アイコノクラズム)と西欧の成立

 イスラム地中海世界進出によって、東ローマは地中海世界で力を失い、西方世界は自立へと動く。またランゴバルドの圧迫に苦しんでいたローマ教皇は、あてにならない東ローマの皇帝をもはやあてにせず、イスラムを撃退した実力者フランクに近づく。(フランクによるイスラム撃退については後ほど)
 イスラムの進出は、それだけに留まらず、聖像破壊論争を誘発する。東ローマ皇帝レオ三世(在位717−41)は、718年ウマイヤ朝イスラムコンスタンチノープル水域での海戦で撃退する。そして、皇帝レオ三世は<イスラム教徒、ユダヤ教徒を改宗させようとしても成功しないのは、キリスト教会が聖画像礼拝をしているからである>として、726年、聖画像礼拝を禁止し、聖画像の破壊を命令するにいたった。754年、ビザンチンコンスタンティヌス5世が教会会議を開き、すべての聖画像の使用を禁止。
 古代教会ではカタコンベの礼拝場の壁に、聖餐や洗礼のようすを描いた絵画や聖書の物語が描かれているように、聖画像を用いることに反対はなかった。しかし、帝国でキリスト教が公認されて後、司教のうちに大衆が聖画像を偶像として礼拝するのではないかという懸念を示す人々が出てきた。聖画像そのものではなく、聖画像の用い方を問題にしたのである。
 ダマスカスのヨアンネスは聖画像擁護の立場から次のように論じた。「神を何らかのかたちによって表そうとすることは狂気の沙汰であり、不敬虔の極みである・・・。しかし、神は・・・真の人となった・・・。文字を読むことができなかったり、読む時間がなかったりする人が多くいることを知っていた教父たちは、これらの事実を画像によって表すことを認めた。それが簡潔な注解所としての役割を果たすことができるからである。」(「正統主義信仰について」4:16)
 レオ三世の背景には、東方教会のキリスト単性論がある。これはキリストの人間性に対して神性のみを強調するエウチュケス主義であって、東ローマ東方に広く浸透しているものであった。エウチュケス主義からすれば、聖画像はキリストの人間性以外は表現しないものだから、これを尊ぶのは偶像礼拝にひとしいということにもなる。
 他方、西方教会では、形あるものを形なきものへの信仰のよすがとするというのは、キリスト教が古代社会にひろがるために必要であると考えていた。神学的にこれも調整して、聖像にはveneratio(崇敬)が、神にはadoratio(礼拝)をささげるという区別がなされていた。第二回ニカヤ会議の定義787年決議第7をみよ。ベッテンソンp151(無論、聖書に立ち返ったプロテスタントとしては、崇敬と礼拝の区別は認めない)
 かつて東ローマ皇帝コンスタンティウス二世が押し付けようとしたキリスト単性論を、ローマ教皇マルティノスは拒んだために逮捕、拷問されて殉教したことがあった。今回は、東ローマ皇帝レオ三世は、その故事をひいてローマ教皇を脅して偶像破壊を強制しようとしたが、皇帝レオ三世はマルティノスの時代とは違って直接に逮捕するまでの力をもってはいなかった。そこで、ランゴバルドをたきつけて教皇を攻撃させたり、南イタリア住民に人頭税をかけて、ローマ教会所領の収入を削減したり、さまざまな方法でローマ教皇権を苦しめた。
 こうした状況で、西方教会はいよいよ東ローマ皇帝から自立を図ろうとする。教皇グレゴリウス3世は、その即位の承認を東ローマ皇帝に願い出た最後の人であり、彼は、同時にフランク族カール・マルテルに対してランゴバルドからの保護を申し出たが(739年)、功を奏さなかった。なぜならカール・マルテルイスラム撃退のために、ランゴバルドの助力を得ていたからである。とはいえ、ローマ教皇がフランク王権に近づいて、わが身の保護をえようとする動きは、この後も続いて行き、実現して行く。751年小ピピンは、教皇ステファヌス二世に油注がれて王位につき、800年には、教皇レオ三世はフランク国王シャルルマーニュカール大帝)に冠を授けて西ローマ帝国成立(後の神聖ローマ帝国)。聖像破壊論争がもたらした影響は、1054年の東西両教会の分裂という結果を生む一因となった。聖画像破壊論争は120年間も続くのだが、神学的な影響よりも、教会史的な影響のほうが大きかったとも言える。