苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史6  ユスティニアヌス大帝と西方教会

1.帝国の弱体化とローマ総主教(教皇)の活躍―――レオ1世

かつて帝国の厳しい迫害下にあった時代、教会は自らをこの世から聖く保つことについては比較的たやすかった。キリスト者となることが権力や富を得ることと直接関係なく、むしろ権力や富を放棄することを意味していたからである。「貧しい者は幸いです。神の国はその人のものです。」ところが、キリスト教が国教化されると事態が変わる。キリスト教徒であることが出世へのパスポートになる。こうなると聖なるものが徐々に俗なるものに侵食されていく。
 キリスト教を国教化したテオドシウス帝は死にあたって、二人の息子に帝国を東西に分割した(395年)。東ローマ帝国はこの後1453年に滅亡するまで存続し、コンスタンティヌス帝の伝統にのっとって、皇帝が教会の元首として君臨する。カエサロ・パピズムである。
 他方、西方にはゲルマン民族が各地に侵入し、フランス、スペイン、北アフリカ、北イタリアにそれぞれ王国を建設し、467年ついにオドアケルによって西ローマ帝国は滅亡した。帝国の弱体化は社会を混乱させるが、反面、教会は比較的国家権力から自由な勢力として成長する。西方教会には、先に見たアンブロシウスの行動に見られる教会の国家からの自律という理念の伝統がある。
 その好例がローマ司教レオ1世の活躍である。レオ1世(Papa Leo I、390年 - 461年、在位:440年−461年)は390年、ピサ近郊で生まれた。若い頃の経歴はあまり詳しく分かっていない。ただ、史書によれば聡明かつ雄弁な人物で、440年に教皇として即位した後は地方教会の改革や教皇権の強化などに努め、教義論争でも正統論を確立したという。
 ローマ教会は、使徒ペテロの殉教の血の上に築かれたと信じられていた。その信仰にもとづいてコンスタンティヌス大帝はローマに聖ペテロ寺院を築いた。それでローマ教会は他にぬきんでた権威を持っていた。しかし、エルサレムアレクサンドリア、アンティオキア、コンスタンチノープルも古来由緒ある教会だった。コンスタンチノープル大司教が皇帝の後ろ盾をもって首位権を主張したとき、それに抗議して451年レオ1世はローマ教会こそすべてに優越すると主張した。(ローマ教会の首位性についての諸史料については、ベッテンソン『キリスト教文書資料集』第八部を参照をせよ)
 またローマの世俗上の行政における功績もよく知られる。この頃のイタリアではフン族の首長・アッティラが侵攻してきていたが、レオ1世はアッティラと会見して平和的解決を図った。その結果、452年にアッティラはローマから撤退している。また、ヴァンダル族がローマに侵攻してきたときも、その責任者と会見することで平和的な解決に努めている。461年、72歳で死去した。レオ1世が即位した頃の欧州では、ゲルマン人の大移動による紛争時代であったが、レオ1世は常に平和的な解決を図り、武力による解決を好まなかった。このため、レオ1世は「大教皇」と称されている。
 (それにしても、レオ1世はフン族ヴァンダル族の首長とどのようにコミュニケーションをとったのだろう?相手もよく言うことを聞いたものだ。不思議だ。)