苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史4 アンブロシウス―西方型「教会と国家」の原型

 アンブロシウスAmbrosius (340年?-397年4月4日)は4世紀のミラノの司教(主教)。アウグスティヌスに影響を与えたことで有名。ローマ帝国の高級官僚の息子として、父の任地ガリアのアウグスタ・トリヴィノールムで生まれた。長じると彼は法学を学んで、官僚の道を歩んだ。優秀な人物であったため、368年にシルミウムの長官、370年にはミラノの首席執政官に選出された。ちなみに当時のミラノは帝国西方の中心都市であった。
 ところが374年、アンブロシウスの運命が大きく変わる。ミラノ司教アウクセンティウス死去に伴う後継人事問題は、アリウス派と反アリウス派の民衆が入り乱れてもめにもめた。人望のあったアンブロシウスが調停に乗り出すと、派閥間の争いにうんざりしていた民衆はアンブロシウスこそミラノ司教にふさわしいと要求し始めた。あまりに熱心な要求に、アンブロシウスはまだキリスト教徒ですらなかったにもかかわらず、なんとこれを受諾!!司祭についてキリスト教のカテキズムを学ぶと、洗礼を受け、すぐに司教に叙階された。これが374年12月7日。司教となったアンブロシウスは教会政治家として優れた手腕を発揮。アリウス派を駆逐して正統信仰の擁護に尽力した。

 ここでアンブロシウスが関わった、後世に影響を及ぼした390年の重要な事件を紹介しておく。テサロニケの暴徒が市の総督を殺害した。アンブロシウスはただちに皇帝に穏便な処置をとるように求め、一時皇帝は納得したかに見えた。「暴徒をゆるす」ということばを伝えさせた。その祝いのために闘技場に7000人あまりの人々が集った。すると、皇帝は態度を翻し、ローマ帝国軍にかれらを殺害させた。
 次に皇帝が教会を訪れると、アンブロシウスは門の前にたちはだかり「そこで止まりなさい。あなたは罪で汚れ、その手は不正なふるまいによって流された血にまみれている。そのような人は、悔い改めるまでは、聖なる場所にはいって聖餐にあずかるのにふさわしくない。」と宣言した。このとき、一人の廷吏が力づくでアンブロシウスを脅迫したが、皇帝は彼のことばが正しいことを認め、公衆の面前で悔い改めを表明した。その後、皇帝は自分が激して過ちを犯さないために、自分がだれかに死刑を宣告した場合、執行は30日間延期せよと命じたという。・・・やがて死期を迎えたテオドシウス皇帝が、その枕辺に呼んだのはアンブロシウスであった。
 この事件は、西方教会の国家に対するかかわり方の伝統になっていく。カエサロ・パピズム(皇帝教皇主義)の東方教会では考えられないことである。

テオドシウス皇帝の教会入場を拒むアンブロシウス  ヴァン・ダイク
(テオドシウス帝はやくざのおやじみたいですね)