苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

戦争にまつわる記憶

 筆者は1958年、昭和でいうと33年生まれの戦後世代である。「もはや戦後ではない」と言われたのが1956年だから、戦後世代と言わず、高度成長期世代というのかもしれぬ。だが、まだ幼い頃には戦争のにおいが残っていた。(以下通信小海118号から)

 小学一年生の頃、アブラゼミの鳴く日、近所でお大師さんと呼ばれる縁日があった。母が「わたあめを買うといで。」と言って、あの穴あきのずっしり重い五十円のニッケル硬貨を握らせてくれた。風になってわたあめ屋に走った。ところが、橋のたもとに白木綿の軍服の兵隊さんの姿があった。一本足に義足だった。傷痍軍人だった。


 「ここはお国を何百里はなれて
  遠き満州の赤い夕日に照らされて
  友は野末の石の下」

 ハーモニカの奏でる曲は子どもの耳にもなじんだ「戦友」で、私はその歌詞を口ずさんでいた。じりじりと照りつける日差し。首筋に光る汗。兵隊さんの前に古い飯盒があって、そこに三個か四個、五十円、十円玉や五円玉が入っていた。私は、つい菊の模様の五十円玉をそこに入れてしまった。ガチャン。と、兵隊さんは小学一年生の私に深々と頭を下げた。なんだか悪いことをしてしまったような気持ちがしながら、手ぶらで帰宅した。
 母は私に「わたあめはどうしたん?」と聞いた。「五十円、兵隊さんにあげてもた。」と答えた。母は「そう。ふうん。」とだけ言ってなにか思い出しているふうだった。
 私が幼い頃育った家は、神戸の須磨寺町にあった。そこに週に三度くらい、須磨の浦の漁師さんが自転車で朝網の魚を売りに来たものである。ほとんど毎回、タコとキスだけなので「おっちゃん。ほかの魚とれへんの?」と聞いたものだ。水揚げした大半は市場に出して、ごく一部を自転車で売って回っていたのだろう。半分は趣味みたいなものである。おっちゃんは魚を売るより油売りのほうが得意だった。
 ある日、話題が昔の話におよんだ。おっちゃんは戦時中、朝鮮半島で陸軍伍長として収容所で看守をしていたという。反抗的な囚人たちに対する差別的ことば、虐待のようすなどを自慢げに聞かされて、家族みんな胸が悪くなってしまった。子ども心に『普通のおっちゃんでも、戦争になったら何するかわからへんのやなあ。』と思って恐ろしくなった。
 この二つの出来事は、戦争の悲惨と日本の罪と人間の底に潜む残虐さということを子ども心に印象付けた。

ニホンフヨウ(日本芙蓉)