苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代教会史ノート6 2世紀の護教家たち

1.教父とは
 「古代教会の著者のうち、教会によって使徒的信仰の代弁者として承認されている者の呼称。・・・レランのヴィンケンティウスは、その著434年において<公教会の信仰と交わりのうちに、清らかに、智恵深く、また変わりなく生き、教え、またとどまって、キリストを信じる信仰をもって死ぬことを得た人々か、またはキリストのために殺される幸いを得た人々か、ただそのような「父たちの(patrum)」見解だけが引き合いに出されるべきである>と言った。・・・・・近世のカトリックの教父学においては、教父として認める基準を教理の正統性doctrina orthodoxa,生活の清浄sanctitas vitae 、教会の承認approvatio ecclesiae、古代に属することantiquitasの四点としている。・・・・」(キリスト教大事典)

使徒教父Patres Apostoloci(Apostolic Fathers)とは、1世紀末から2世紀前半の新約正典に収められたもの以外の、異邦キリスト教会における主要文書執筆者たち。
使徒教父文書(講談社学芸文庫所収)
「クレメンス第一の手紙」95―96年
「クレメンス第二の手紙」150年、
「イグナティオスの手紙」155年頃、
「ポリュカルポスの手紙」135-137年頃、
「ポリュカルポスの殉教記」155年2月23日の殉教直後、
十二使徒の教訓 ディダケー」130-160年頃、
バルナバの手紙」130-131年?
「ヘルマスの手紙」140年頃、
「ディオグネトスへの手紙」3C
「パピアス断片」130年頃
 
*四大ギリシア教父
アタナシオス ・・・三位一体論争で有名
カエサレアのバシレイオス
ナジアンゾスのグレゴリオス(329-389年)
ヨハネス・クリュソストモス(344-407年)
しかし、異端的教説ゆえに問題視されたが、東方最大の教父はオリゲネス。

*四大ラテン教父
アンブロシウス(340?-397年) :教会の国家に対する独立、アウグスティヌスの師
ヒエロニムス (347?-420年) :ウルガ
アウグスティヌス(354-430年) :西方教会最大の教父
グレゴリウス1世 (ローマ教皇) :中世千年間の土台を作る。

 キリスト教会がユダヤ教から分離し、異教世界に宣教をしていくと、反対や迫害が起こってきた。これに対してキリスト者たちは、より自覚的に自らの信仰について考え説明するようになり、また攻撃に対しては弁明する必要が生じた。新約聖書に見える最初のものは、パウロのアレオパゴスの説教(使徒17章)。ここで、真の神は創造主であり、偶像でないこと。神と人間の関係。キリストについて語られた。

<この項のゴンサレス、ベッテンソン以外の参考文献>
  グッドスピード『古代キリスト教文学入門』教文館1994
  ヤロスラブ・ペリカンキリスト教の伝統1』教文館2006
  上智大学中世思想研究所『中世原典思想集成1,2』平凡社
  オリゲネス『諸原理に就いて』小高毅訳 創文社

2. キリスト教への誤解と低俗な噂

 「われわれに対して、無神論、幼児嗜食、母子相姦という、三つのまったく根拠のない非難が言い立てられている。」(アテナゴラスAthenagoras,Legatio pro Christianis,iii36)アテナゴラス(2C中ごろ)とはアテネの弁証家、哲学者である。キリスト教徒がたがいに兄弟姉妹と呼び、非公開の愛餐に集ったことが、近親相姦をふくむ乱交パーティーだと誤解された。聖餐については、キリスト教徒は「人の子を食べ、その血を飲んでいる」(ヨハネ6:53)とあらぬうわさを立てられた。
また、キリスト教徒はロバを拝んでいると馬鹿にされたことが、ローマのパラティーノの丘に近い壁に刻まれた右の落書きから知られている。十字架にかけられた男はロバの頭をしており、それをあがめている左の人物がアレクサメノス。文字はΑλεξαμενοscεβετε θεονとある。意味は「アレクサメノス、神を拝め」となるが、もしcεβετεはcεβεταιの書き誤りと見れば、「アレクサメノスは神を拝む」ということになる。いずれにせよ、自らを神と称しながら最後は十字架に磔にされて殺されてしまったキリストを理解できない者が、キリスト教徒であるアレクサメノスを馬鹿にして書いた落書きであろう。まさに「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリント1:18)である。

3. ケルソスCelsusによる知的な非難

 「キリスト教徒は無知な下層の民衆であり、教えは知性的であることを装いながら実は矛盾だらけのものである」という非難がされた。これが教養ある貴族たちのキリスト教に対する一般的な印象である。ケルソスのキリスト教批判文書『真正な教え』は178年に書かれた。その本は残っていないが、オリゲネスOrigenesが二世代前のケルソスへの詳細な反論している『ケルソス駁論』における引用から、その概要が推測される。オリゲネスはこの書の4分の3を引用している。ケルソスのキリスト教批判の内容にはもっともだと思われる部分も多く、反論の困難なものであったので、長らく反論書も出なかった。アンブロシオスがオリゲネスに依頼して書かれることになった。『ケルソス駁論』(246-248年)は古代護教文学の頂点とされる。現代でも多くの部分が通用する弁証論である。
<文献 >
第8巻 オリゲネス3 ケルソス駁論Ⅰ 出村みや子
            2908-0 (第1回配本 定価2,940円) (1987.9)
第9巻 オリゲネス4 ケルソス駁論Ⅱ 出村みや子
            2909-9 (第6回配本 定価4,935円) (1997.2)
第10巻 オリゲネス5 ケルソス駁論Ⅲ 出村みや子
*朱門岩夫訳『ケルソス駁論』がHPに公開されている。http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/ccpr0.htm

*ケルソスのキリスト教批判の論点…オリゲネス『ケルソス駁論』より
 「序」において、オリゲネスは、主イエスがもろもろの非難に対して沈黙をなさったことを鑑みて、ケルソスに反論することの意義について疑問を呈する。ケルソスの非難は信者を神の愛から引き離すことはありえない。ただ、本書は未信者に対してのみいささかの意味があるものとして書かれた。多くのことが書かれているが、いくつかポイントを拾ってみよう。
a.キリスト教の教えは未開のユダヤ人から来たものであって、教養あるギリシャ人やローマ人のものではない。聖書になにか良いものがあるとしたら、それはギリシャ人から借用したものにすぎまい。
b.ユダヤ人とキリスト教徒が偶像崇拝を否定していることは正しい。しかし、それはギリシャの古代の哲学者ヘラクレイトスもすでに主張している。
c.ユダヤ人とキリスト教徒の神観はばかげている。神は全能の唯一者であるといいながら、他方で生活のすみずみにまで関与しているという矛盾あり、と。
・・・・これは聖書の啓示する神観の超越性と内在性をしっかりとらえている!
d.キリスト教の神礼拝は社会の絆を破壊する。キリスト教徒は共同体の行事に加わることは偽りの神々への礼拝をするに等しいとして不参加。しかし、もし神々が偽りだというならばそれをなぜ恐れるのか、もし信じていないなら教養ある者たちがしているように神々の儀式に参加しないのか。実のところ神々が真実だということを恐れているのではないか。
e.イエスはローマ当局の手で犯罪者として処刑されたやからにすぎぬ。イエスはマリアとローマ兵との間に生まれた私生児である。もしイエスが真に神の子であるならなぜ十字架にかけられることを許したりしたのか?

*反論
①オリゲネスは、これは神が良心に記した共通観念(ローマ2)による一致であるという。
②オリゲネスはヘラクレイトスよりもモーセのほうが古いと指摘する。
③<筆者>神の超越性と内在性をよく観察している。確かに聖書に啓示された神はこのようなお方である。たとえば、創世記1章には神の超越性が表現され、2章、3章には神の内在性が表現されている。ヘルマン・バーヴィンクはこの二面を強調している。そして、超越性と内在性をあわせもつ神であられてこそ、我々は信頼するに足りる。超越的で絶対者であるからこそ、信頼するに足る神である。しかし、超越的であるだけでは、我々は神とかかわりを持つこと祈ることができまい。だが、聖書の神は、いとも近く我々に臨み給うお方である。それゆえ祈りはむなしくならない。
④<筆者>異教の宗教行事というのは、中身のない形だけのものではない。中身はあるが、それは悪霊という中身である。そういう意味ではケルソスの言う通りなのである。ゆえに、キリスト者はかかわらない。1コリント10:19-21
⑤<筆者>受肉の奇跡を信じることのできないユダヤ人の間でのでまかせにすぎない。また、キリストの十字架における刑死の意義を悟りえないのは、罪深い人間性のせいであり、霊的盲目のせいである。(ⅠコリントⅠ:18)

3.エルサレムアテネ  

 異教社会に生きるすべてのキリスト教徒に共通していたのは、偶像は避けるべきであるという点である。しかし、非キリスト教古典文化にどのように対処するかという点ではさまざまな立場があった。エルサレムキリスト教)とアテネ(非キリスト教古典文化)の関係性を肯定的に見るか、否定的に見るかということである。これは後に、「恩寵と自然」、「啓示と理性」の関係と呼びかえられることになる。

(1) 殉教者ユスティノス英 Justin Martyr(100頃から165年)・・・ロゴス・スペルマティコス論
 パレスチナ出身だが、ユダヤ人ではない。彼は学問探求のためにギリシャに旅し、ストア派ピタゴラスは、アリストテレス派などを渡り歩き、どれにも満足できなかったが最後にプラトン派とであって満足する。ところが、エペソでひとりの老人とめぐり合い、ユダヤ教の預言とキリストにおける預言の成就を教わって、彼は満足できる真理を見出した。135年頃のこと。数年後彼はキリスト教の教師となって、150年頃までにはローマに腰を据える。残っている著作は『ユダヤ人トリュフォンとの対話』155-160年と『弁明(護教論)』150年のみ。 彼は165年ころマルクス・アウレリウス帝統治下で殉教した。

清水哲郎氏の文章引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
S.Justinus Philosophus et Martyr (-c.165) (ラテン語表記による)
a. 自伝的言及 Dialogus cum Tryphone Judaeo1150/155
 エフェソスあたりで、ストア・アリストテレスピュタゴラス各派の門をたたくが満足できず、最後にプラトン派に会って満足する。「非物的なものの知覚によって圧倒された。イデアの観想によって私の思考は翼を与えられた。私は知者(sophos) になったと想像した。私は愚かにもただちに神を見ることを期待した——それがプラトン哲学の目標だったから(PLG 6,477)。」
 やがて老人に出会う。老人はユスティノスが哲学に幸福を求めていること——哲学は幸福をもたらす、哲学は存在者の知識(エピステーメー)、心理の認識(エピグノーシス)であり、幸福はかかるエピステーメーやソフィアに伴う特権・報酬である——を確かめ、対話が始まる。
 老人はプラトンの魂に関する説の矛盾を指摘する:魂の眼であるヌースが神と類縁的syngeneia ならば、魂は本性的に神的・不死であることになる。しかし魂はそれ自体として不死でない生命であるのではなく、神から生命を受ける限り生命を持つ。魂はそれ自体として神を見ることはできない。神認識の道は聖霊による預言者たちに求めるべきである。老人はこのことを聖書によって知ったと言う。
 そこでユスティノスは聖書を読んだ。「すると、炎が私の心に燃え立った。預言者たちとキリストの友である人たちに対する愛が私を強くとらえた。. . . . . . この哲学のみが確実で有益であることを悟った。かくして私は哲学者なのである(となったのである)。(PG 6,491)」
(以上清水哲郎氏から引用)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
a.ユスティノスは真の哲学としてのキリスト教哲学を志した。
 キリスト教と異教の哲学に接点、異教哲学にも真理のきらめきを見出す。信仰と理性、キリスト教と哲学の調和を目指した。たとえば、プラトンは・・・
① 万物の存在が由来する至高の存在があると考えた。
② 肉体の死を超える生命がある。
③ 現実世界を超える実体があるとも教えた。
 なぜ、聖書の教えと共通する点があるのか。ユスティノスは、これをプラトン派・ストア派のロゴス論によって次のように考えた。<キリストは完全な神的ロゴスであるが、彼の受肉前にもすべての人が理性的精神の中に同じロゴスを種(ロゴス・スペルマティコス)として所有しているという。その意味では誰もが部分的に真理に参与している。参与の度合いは旧約の預言者だけでなく、ギリシャの哲学者たち理性的な人間ほど大きい。彼らはキリスト以前のキリスト者である。だが、キリストの受肉以後、彼を受け入れるものは完全に所有するようになった。>
 だから普遍的なロゴスを人間はみな精神のうちに分かち持っているということになる。ユスティノスの神学的な枠によって、「古典文化の中にある良いものはすべて、それが異教徒から出たものであったとしても、実際にはキリスト教に属するという主張を可能にした」(ゴンサレス)。
 
 ユスティノスの「弁明(護教論)」150年頃第一巻46章1−4節 ベッテンソンpp26、27 
「(2)キリストは神の長子であると教えられており、また、彼が全人類のあずかる理性(言)であることは前に述べた。(4)そこで、理性にしたがって生きる者は、たとえ無神論者とみなされている人であってもキリスト者なのである。ギリシャ人のなかでは、ソクラテスやヘラクリトス、および彼らのように生きた者たちがそうである・・・。」
 同第二巻13
 「(4)だれが、どこで語ったことであっても、正しく語られた事柄はみなわれわれキリスト者に属する。(5)また、これらの著者たちはみな、かれらのうちにまかれた理性の種をとおして、真理をおぼろげに見ることができたからである。」

b.キリスト教への批判とユスティノスの反論
① 神々を礼拝しないキリスト教徒は無神論者である。
 <反論>ギリシャ古代のすぐれた著述家も『神々は人間の考え出したものにすぎず、それを礼拝する人間よりももっと悪徳に満ちて邪悪だ』と言っている。
② 復活などというのは不合理だ。
 <反論>神がすべての人のからだを無から創造したのであるから、人が死んで撒き散らされても、神は彼を再び創造するというのは合理的だ。
キリスト教徒は不道徳だ
 <反論>むしろ酒盛りや乱交をするギリシャローマの異教徒のほうが不道徳である。
キリスト教徒は皇帝礼拝を拒否して社会の絆を破壊する
 <反論>たしかにキリスト教徒は皇帝礼拝をはじめ被造物礼拝はしないが、帝国に対して忠実な民である。

(2) タティアノス (2世紀の弁証家)
生没年は不詳で、120年頃-2世紀末ころとされ、出身地はアッシリヤであろうとされる。エンクラト説を唱えた。
 略歴を述べると、120年頃、メソポタミア――本人曰く「アッシリア」、おそらくはアディヤベネ――で、異教徒の両親の間に生まれた。ローマへと旅行したとき、そこで多くの東方出身のキリスト教徒に出会い、キリスト教徒へと改宗して護教家ユスティノスの弟子となったという。主著『ギリシア人への言葉』を書いたのは、この頃である。
 165年頃、マルクス・アウレリウス帝治下で、師である護教家ユスティノスが殉教した。するとタティアノスは過激な禁欲主義へと走り、結婚を禁ずるなどのエンクラト説を標榜した。
 172年頃、故郷へと帰ったタティアノスは『ディアテッサロン調和福音書』を執筆した。また禁欲主義教団としての「エンクラト派教団」を設立し、東方でのキリスト教の布教に努めた。
 タティアノスの主張は、次のとおり激越な調子でギリシャ文化を非難するもの。<キリスト教ギリシャ文化から出ていない。むしろギリシャ文化こそ彼らギリシャ人が未開人と呼ぶ人々から出たものであり、借り物にすぎない。天文学バビロニア人から、地理学はエジプト人から、文字はフェニキア人からの借り物。モーセの書物はホメロスよりプラトンより古いのだから、宗教や哲学ももらいものにすぎない。ギリシャ人たちは自分たちの文化を誇るが、実際はみなもらいものにすぎない。しかも、それを正確に受け取っていないからまがいものにすぎぬ。しかも、ギリシャの神々は不倫・近親相姦・幼児殺しなど恥ずべき行為を行なっているゆえ、礼拝に値しない。キリスト教徒は下層階級の低級な人間であるという異教徒こそ、実は道徳的に低級なのである。>

ギリシア人への言葉』 
 ギリシア文明を悪しきものとして激しく攻撃し、それと同時にキリスト教の歴史と純粋さを弁護した作品。 その目的はギリシア人の誤りを論駁することにあり、哲学者や宗教、その密儀などを荒々しく批判している。そして、彼の師ユスティノスのような「ギリシア哲学も哲学である」という見解を持つことはなく、「哲学は真の哲学、つまりキリスト教のみである」とした。 タティアノスのこうした思想は非常に攻撃的なものであったが、教理の面から見れば異端ではなかった。実際にタティアノスのような傾向は東シリアで多く見られたタイプであり、後世にエジプトやシリアで発展した修道院制度の中にも残っているのである。 また、師であるユスティノスを殺した哲人皇マルクス・アウレリウスに対する失意と、憤りが、タティアノスをこのようなギリシャ・ローマ文化全否定といった思想的傾向にさせたという面もあるだろう。
 しかし、それはタティアノスが生きた当時のローマの傾向とは相反するものであった。そのため、エイレナイオスのようなローマを代表する教父たちからは異端として反駁された。こうしたローマ教会からの異端宣告は歴史的に根深いものがあり、今なお彼を「グノーシス的である」などと紹介することがあるが、それは妥当なものではない。

『調和福音書ディアテッサロン』 
 四福音書をまとめ、イエスの受難を一続きの物語にしたもの。「聖書物語」と呼ぶべき代物の、最初の一書であり、シリア語を話す諸教会で広く使われた。5世紀までは重宝されたが、その後は分離した4福音書の正統性が強く謳われるようになり、典礼などの正式な場では用いられなくなった。だが、この手の「聖書物語」が果たした役割は非常に大きい。民衆の間では 聖書四福音書以上に広く親しまれ、これを手本に様々な「聖書物語」が語られた。人物「イエス」を人々に広めたという点に関して言えば、聖書四福音書のそれをしのいでいる。
 「聖書物語」の先駆たるタティアノスの『調和福音書』であるが、これがもともとの言語が何であったかは、分からない。完全な原著が存在せず、それに加えてタティアノスは「シリア語」のほかに「ギリシア語」「ラテン語」をよく解したためである。一応、「シリア語」原著説が最有力である。
 現在再構築される『調和福音書』は、大きく分けて次の6つの史料に拠っている。これらは「聖書物語」としての物語配列順序に注目した写本群である。原著と目されている古典シリア語の 『調和福音書』写本は、残念ながら現存しない。