苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

マケドニヤの叫びに応えて

使徒16:6−15
2010年8月8日 小海主日礼拝

 本日の箇所は、福音がアジアからヨーロッパに最初に渡ったという、キリスト教の伝道の歴史上、有名な箇所です。それが主の特別な導きによったのだということを示すのが6節から10節です。

1. マケドニヤの叫び
 第二回伝道旅行の第二回目です。パウロ、シラスそしてルステラから一緒になったテモテは、先に第一回伝道旅行で伝道した地域の群れ群れをめぐり終わると、アジヤ州と呼ばれた地域に伝道を進めようとしました。その中心地は、首都エペソでした。ところが、聖霊パウロにそのことを禁じたので、彼らは北に進んでフルギヤ・ガラテヤ地方を通ってムシヤに行きました。さらに東北に進んで、今度は黒海沿岸のビテニヤ地方に伝道をしようとしました。ところが、イエスの御霊は、これをも妨げられたというのです。(6.7節)
 異邦人の使徒として召されたパウロです。まずはこの小アジア半島をくまなく伝道するのだという計画を胸に抱いて、アジア州の中心であるエペソを目指しましたが、それを主の御霊がさまたげ、それならば北に行くべしと思ってビテニヤを目指しても、これも御霊に許されなかったのでした。御霊が禁じられたというのは、ふつうにとれば当時預言が多くあった時代であり、パウロのような特別な宣教師でしたから、御霊の導きがあったのでしょう。
しかし、それは、具体的に「詳しくA地方に伝道し、それからB地方に伝道しなさい」という導きではなく、あちらに行こうとしたらノー、こちらで伝道しようとしたらノーというふうな導き方だったのは興味深いことです。主の導きの仕方は、パウロという伝道者の自由意志というのでしょうか、彼の意思を尊重なさっているのです。大きくは異邦人への使徒という任務ですから、ユダヤ人以外の人々がいる地域であれば、どこでもOKなので、イスラエルの国以外、どこでもよかったのです。それでパウロとしては、第一回目は小アジア半島の比較的アンテオケに近い地域だったので、第二回目はアジア州と考えていて、ボスフォラス海峡を渡ってマケドニアギリシャ方面へというのは時期尚早と思っていたのです。そうして、主はパウロを泳がせながら、いや、わたしの心はこちらだ、こちらだと小出しにして導かれたのでした。神様の主権的意志をもって機械的に神に従う者を動かそうとはなさいません。神のみこころを熱心になそうとする者が、自分の決断をしながら進むことを導いてくださいます。
そんなこんなで、結局、アジヤに行けず、ビテニヤにもいけなかったパウロ一行は少し当惑しながら、ムシヤを通ってトロアスに出たのです。トロアスは港町です。(16:8)
 パウロは、波止場に立って、はるか向こう岸のマケドニア半島を眺めながら、主のみこころを問うたことでしょう。「いったい、あなたのみこころはどこにあるのですか。アジヤ州の伝道は断念させられ、ビテニア伝道も断念せよと言われ、では、いったい私はどこに行って福音を伝えるべきなのでしょうか?」このような祈りのことばを、胸のうちに繰り返している中でパウロはひとつの大切な出会いをここトロアスで経験するのです。
表面上あきらかではありませんが、6節と10節の代名詞を注意深く観察するとわかります。6節では、「彼らは」となっていますが、10節を見ると、「私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした」とあります。つまり、このトロアスでパウロはこの『使徒の働き』の記者となった医者ルカと出会っているのです。パウロはガラテヤ書などを読みますと、この第二回伝道旅行では、体調がすぐれなかったようですから 、医者を訪ねてみたのでしょう。そうして、からだを診てもらいながら、パウロがキリストの福音を医者ルカに話しているうちに、ルカはイエス様を信じるようになりました。いや、単に自分がイエス様を信じてよかったと思うだけではなくて、同胞にもイエス様のことを知ってほしいと願うようになりました。ルカはマケドニヤ人(ギリシャ人)だったのです。「海の向こうには、そのキリストの福音を知らない私の同胞がたくさんいます。」とルカは当然話したことでしょう。
 さて、トロアスでのある夜パウロは幻を見ました。「ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。」(9節)もしかすると、幻の中のマケドニヤ人の顔はルカにそっくりだったかもしれません。この幻を見たとき、パウロはようやく神様のマケドニヤ〜ヨーロッパ宣教のご計画を確信できたのでした。(16:10)
 10節で「確信した」と訳されていることばは少し面白いことばで、スンビバゾーといいます。これは多くのものを結び合わせる、織り合わせるという意味のことばで、頭の中でいろいろなことを結び合わせるということです。つまり、小アジア半島を西に進んでアジヤ州伝道をしようとして妨げられ、北東に進んでビテニヤ伝道を志して妨げられ、体調もすぐれない状態でやむなくトロアスまでやって来た。波止場に立って、この海峡を渡ればマケドニアか・・・とぼんやり考え、その後、マケドニヤ人の医者ルカと出会った。そして、昨夜の幻だ。こういうことを考え合わせると、これは確かに主が私たちをマケドニヤに招いて伝道せよと命じておられるのだと確信したのでした。自分は、まずは小アジア半島をしっかりと伝道してからという計画が神のみこころだと決め込んでいたけれど、神様には別のご計画があって、早々にマケドニヤに渡れとおっしゃっていたのだと悟ったのでした。

<適用>みこころを知るには
 パウロがみこころを悟るまで導きを得たことから私たちも神様のみこころを求めるにあたって、原則を学べると思います。
神を愛し、みこころを行いたいという熱心を持っているということです。パウロは異邦人に伝道せよという命令を受けていましたから、とにかく異邦人伝道にまい進していました。していたからこそ、アジヤに行くのを妨げられたり、ビテニヤ伝道を妨げられたりしたのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる」とローマ8:28にありますから、神様を愛する動機である行動をとるならば、神はあのこと、このこと、いろいろなことを働かせて結び合わせ、織り合わせて、益へと導いてくださいます。みこころがわからないからと座り込んでいるのではなく、神の愛する動機で積極的に動いてみることが大事です。
そうしていくときに、神様が聖書のことばをもって、また、摂理のうちに人との出会いやさまざまな出来事を通して、「こっちだよ」と導いてくださることに気づくでしょう。

2. ルデヤの召し

(1)外的召しと内的召し
 さて、みこころがマケドニヤ伝道なのだと悟ったパウロは、ルカを水先案内人としてさっそく旅立ちます。みこころがわかったのに、躊躇していると、タイミングを逃すことがあります。神の摂理の下に生きる者にとって、「時」タイミングはとても大事な要素です。「今、このとき」ということが確かにあるのです。(16:11,12)
 ピリピという町はローマ直轄の植民都市であり、マケドニア地方の中心的な都市でした。住民はローマ人が半分、ギリシャ人が半分、そして少数のユダヤ人たちも住んでいました。ユダヤ人の数はシナゴーグを造るほどには多くはなかったので、彼らは川岸に礼拝をする場所を定めて安息日ごとに、そこで祈りを捧げていました。パウロたちは、例のごとくまずは、旧約聖書を知っているこの人々に伝道をしに出かけてゆきます(16:13)。
 パウロは「旧約聖書に預言され、アブラハム以来待ち望まれていたメシヤが、ついにイスラエルに来られました。それはナザレのイエスです。イエスは私たちの罪のあがないを十字架で成し遂げて復活されました。神の前に悔い改めて、イエスを信じなさい。」と宣べ伝えたのでした。ここにルデヤという女性がいました。彼女のことが14節に紹介されています。ルデヤは紫布の商人であったといいますから、かなり裕福な人だったようです。紫布というのは古代、とても高価な品物でした。彼女は商売人とあって、やり手で活発な女性だったようです。彼女は異邦人ですが、「神を敬う」人でした。
 この川岸には多くの人たちがいたわけですが、そんな中で神様はルデヤの心を開いてパウロの話に心を開くようにさせたのです。(16:14)
 
ここに、神様はどのように私たちを救いへと召してくださるのか?ということが明瞭に教えられています。救いへの召しは、外側と内側から行われます。外側とは、伝道者の語る福音の説教です。伝道者が、福音つまり「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」を熱心に勧めることによって、救いへの召しがなされます。これを外的な召しといいます。
そのとき、内側に主の御霊が働かれて、その心を開いて、伝道者が語ることばに心を留めるようにしてくださるならば、その人は「伝道者が語る福音がほかの誰でもなく、この私に語られているのだ」と悟ることができるのです。
人間としてできることは、キリストの福音を解いて聞かせることであって、それを生きたことばとして聞く人に受け入れさせてくださるのは、主ご自身なのです。ですから、私たち人間としてはキリストの福音を正しく伝えることに徹する必要があります。

(2)救われた喜びのあまりに
ルデヤは、パウロが語るとおり、自分は神の前に罪ある者であることを認め、イエスこそ待望されたメシヤだということを確信すると、そこにいた家族みんなもイエス様を信じ受け入れました。そして、ただちに家族みんなが洗礼を受けました。そして、ルデヤは言いました。16:15「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」こんなふうに言われた他、泊まらざるをえませんね。泊まらなければ、「あなたは主に忠実であるとは思いません」と言っていることになってしまいますから。「強いてそうさせた。」とも書かれています。
 このルデヤの振る舞いは、彼女の積極的で活発な性格とともに、彼女のうちに主が与えてくださった鮮やかな回心にともなう大きな喜びを表しています。イエス様に自分がこんなに愛されているとということを知ったら、ルデヤは、いてもたってもいられなかったのです。「なにか主のお役に立つことをしたい。イエスさまは私のために十字架にかかって、私を救ってくださったんだもの。この私に何ができるだろう?」ルデヤはそう考えると、今、このピリピの町に福音を伝えに来ている伝道者パウロ一行を屋敷に泊めて、自分の家を拠点として伝道してもらうことができると考えたのでした。そして実行したのです。
まことに見事な回心でした。聖霊が、ルデヤのうちに新しい命をくださり、喜んで仕える霊に彼女は満たされたのでした。
エス様を信じて救われるということは、第一には神様の前で罪を赦されて義と宣告していただいくということです。これは法的なこと立場的なことです。ですが、救いはそこでとどまっていません。第二に、イエス様を信じて罪を赦され、義と宣告された人のうちに、主は御霊を満たして、その人を内側から実質的に新しくしてくださるのです。内側から新しくされてた人は何かしてイエス様のお役に立ちたいと願う人になるのです。今まで自分の損得でしかものを考えられなかった人が、イエス様のために喜んで自分を差し出す人と内側かられるのです。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

結び
 マケドニヤの叫びが神から出ているのだと確信し、それに応えて、使徒パウロたちは海を渡りました。キリストの福音がヨーロッパに渡ったのです。すると、神様はちゃんと、そこにルデヤとその家族というご自分の選びの民を用意していてくださって、パウロの宣教を通じて、救ってくださったのです。パウロと同行者たちは、どれほどうれしかったことでしょうか。たしかに、主は私たちをこの地に招いてくださったのだ、と感激ひとしおであったでしょう。
 人の永遠のいのちが全世界よりも重いものであるのですから、人ひとり救われるためだけのためにでも、伝道者がそこに福音を伝えに行くことは意味のあることなのです。ピリピ伝道の出発は小さな一歩ですが、この後ヨーロッパ全体がキリスト教会2000年の歴史において大きな部分を占めていくことを考えると、これは大きな一歩なのでした。
 神のみこころを行おうと熱心に願う者に、神様はみことばと御霊とさまざまな摂理をもって導きを与えてくださいます。主の導きを得たならば、勇気と信仰を持って一歩踏み出すことがたいせつなことです。今、私たちの目には小さな一歩であっても、神様は、その一歩を大きな一歩として用いてくださるかもしれません。