苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主の役に立つ者に

使徒15:36-41
2010年7月25日 小海主日礼拝

             小海夜明け


 バルナバパウロは、第一回伝道旅行が終わってしばらくの間、アンテオケにとどまってアンテオケ伝道に励みましたが、幾日かたって後、パウロバルナバにこう言いました。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」
 福音の種を蒔き、蒔いただけでなくそこに生まれた群れのために長老たちを定めて、教会を形成してきたのですが、その後の歩みがどのようになっているかが気になるところであるからです。真理の道からそれてはいないか、伝道は進んでいるか、また困難に直面していないかと考えて、彼らを励ますために出かけようというのがパウロの意図でした。バルナバも同じ思いを抱いていたのでしょう、ただちに賛成して出発準備にかかります。

1.マルコ

 ところが、誰を同伴していくかについて問題が起こりました。マルコのことです。先にも少し触れたことですが、きょうはていねいに扱っておきましょう。先に、エルサレムで逮捕・投獄されたペテロが御使いによって助けられ、牢から出たときに戻っていった多くの弟子が集っていた屋家が「マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家」と呼ばれています(使徒12:12)。
ここでマルコの母はマリヤといったことがわかりますが、父親に関する言及が聖書にはありません。おそらく、彼女はやもめであったからでしょう。若くしてマルコは父を失っていたことになります。
とはいえ、やもめの母に育てられたからといって、マルコは若い日に貧しさのうれいを経験したわけではありません。この家は大きな屋敷で弟子たちの集会によく用いられていて、伝承によれば最後の晩餐が行われた二階の広間はこの家であり、聖霊降臨日に120名もの弟子たちが集まっていたのもこの家でした。ロダなどの女中たちも雇われていたことからしても、お屋敷でした。マルコの家は、かなり裕福であったことが伺われます。
ただ父親を早く失った母と息子にありがちなことですが、母は息子を頼りにしがちになり、息子は母からなかなか離れられないということがあったように思われます。
キプロス出のバルナバはマルコのいとこにあたる人物で、レビ人で祭司の家系の人で(使徒4:36)、彼も資産家であり、キプロスの総督と以前から面識があったようです。このようにヨハネ・マルコという青年は、いわゆる毛並みのよい人物であったことがわかります。
 さて、そのマルコについて、バルナバは第二回目の伝道旅行にも同行させようとしていました。けれどもパウロはとんでもないと考えていました。「ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。」(15:37,38)
 第一回伝道旅行の際、キプロス伝道が終わっていよいよ小アジア半島の内陸部での本格的な伝道が始まろうというときになって、どういう事情があったのかは定かではありませんが、ヨハネ・マルコは一行から離れてエルサレムに帰ってしまったのでした。使徒13:13「パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。」とあるとおりです。エルサレムには、彼の母と屋敷が待っていました。
ちなみに使徒15:38の新改訳の訳文は誤解を生みそうな翻訳になっています。「仕事のために同行しなかったような者は・・・」とありますが、マルコにはエルサレムになにか仕事があってその都合で、エルサレムに帰ったという意味ではありません。ここで言っている「仕事」とは福音宣教の仕事のことです。つまり、塚本訳のように、「パウロは、(前の旅行の時)パンフリヤから自分たちを離れて、一緒に仕事に行かなかったような者を、連れてゆくべきでないと頑張った。」という意味です。
「どんな事情があったにせよ、福音宣教という主がくださった大切な仕事を途中で放り出してエルサレムへ逃げ帰るような、無責任な若造は信用できない、二度目の伝道旅行に伴うなどとんでもない。バルナバは甘すぎる」とパウロは主張したのです。ルステラで石打ちにあったように、文字どおり生命をかけて伝道しているパウロから見れば、マルコのような覚悟の定まらない青年はとうてい献身者とは言いがたかったのです。
マルコがなぜエルサレムに帰ったのかについては、いろいろ推測されています。キプロス伝道で魔術師と対決した経験が恐ろしくて、いよいよ異邦人がたくさんいる小アジア半島内陸部にまで踏み込んでいくことに怖気づいたのではないかとか、いとこのバルナバがリーダーだと思っていたら、パウロのほうが発言力があるようになってきたことに腹を立てたんだろうなどという推測です。実際、もしバルナバパウロについていけばルステラでは石打にされる血みどろのパウロを目撃しなければならなかったわけで、小アジア半島伝道というのは生半可なことではなかったのです。とにかく、ヨハネ・マルコは途中で伝道の任務を放り出して帰ってしまったのでした。マルコは、この時点では、福音の宣教者としての献身の覚悟が十分に固まってはいなかったというのは、パウロの言うとおり事実でした。

2.パウロバルナバの反目と伝道戦線の拡大

 この青年マルコについて「伝道者としてあるまじきことだ。」とパウロは考えて、「マルコは将来も伝道者として見込みはない」と思いました。パウロの見解からすれば、伝道者たるものはむちで打たれようと、石で打たれようと、悪魔に攻撃されようと、ひるむことなく命がけで福音を宣べ伝えるものでした。伝道は主イエスがくださった至高の任務であるのに、それを放り出してママのいるエルサレムに逃げ帰るようなやつが、主から伝道者としての召しを受けているとは、パウロには到底思えないのでした。「マルコが福音宣教の戦線から離脱することができたのは、マルコがなにか勘違いして伝道者がかっこいい者であるかのようにあこがれていただけのことなのだ。だから、第二回伝道旅行に連れて行くことは足手まといになるだけだ。」とパウロは主張したのです。まあ、パウロの峻厳な性格もあっての判断です。
他方、バルナバは、そのニックネームどおりどこまでも寛容で性格温厚な人でした。バルナバは、「パウロ、君のいうことはわかる。だがヨハネ・マルコはまだ若いのだ。もう一度チャンスを与えてやるべきだ。」と主張しました。「確かに先の伝道旅行で任務を放り出してエルサレムに帰ってしまったことは、マルコの過ちである。だが、我々だって多くの過ちや弱さがあって、それを主が忍耐してくださって用いられているのではないか。パウロ、君だってかつてはキリスト教会を迫害するという取り返しがつかない過ちを犯したけれど、赦されて今キリスト教伝道者となっているではないか。」・・・そんな風なことをバルナバは主張しました。
しかし、パウロは「たしかに我々は弱い。私が罪ゆるされた罪人の代表だ。しかし、主イエスは伝道者たらんとする者については、特に『手を鋤につけてから振り返るような者は、神の国にふさわしくない。』と、おっしゃったではないか。覚悟の中途半端な献身者を主はお用いにならなかった。」と、反論します。こんなわけで、マルコをめぐってのバルナバパウロの議論はどうしても折り合いがつきませんでした。 結果、15章39節。「そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。」ということになってしまったのです。

パウロバルナバのゴールデン・コンビはこうして解消されてしまいました。マルコは自分の先の伝道旅行における無責任な行動が、こんな結果を生んでしまったことに、ようやく大きな責任を感じたことでしょう。けれども、神様は不思議です。人間のあやまちからもよい実を作り出されるのです。
二人が物別れになってしまった結果、バルナバはマルコをつれてキプロス島へ渡り、先に伝道した人々の間をまわって励ましかつ未信者に伝道しました。他方、パウロは若者シラスを連れてシリヤとキリキヤへと伝道旅行に出かけて、この地方の諸教会を励まし力づけたのでした(15:50,51)。
二人が物別れになったことで、このあとパウロバルナバという二人の優れた宣教師が二手に分かれて地中海世界をより広く効率的に伝道することになります。さらに、若手を育てるということについても、パウロはシラスを、バルナバはマルコを担当するということになって、働きは広がって行きました。考えてみれば、これも神の摂理でした。

3.その後のマルコ・・・・役に立つ者に

 若いヨハネ・マルコに対するバルナバパウロの考え方の相違について、私たちはどのように理解すべきでしょうか。どちらかが正しく、どちらかが間違っていると軽々しく結論付けるべきではないでしょう。パウロの伝道者論はまさに正論です。主イエスから託された福音の任務を捨てて逃げ出すような者に、伝道者となる資格などありません。しかし、バルナバがもう一度マルコにチャンスを与えようではないかというのも、実を結ばない木など切り倒してしまえという主人に対して、もう一年待ちましょうといった庭師のたとえを思い出させます。主の忍耐を思わされます。
 私事にわたりますが、思い出しますと、私を育ててくださった朝岡茂牧師という恩師は、燃え盛る火の玉のような牧師でした。献身者は牧師の右腕左腕だとおっしゃって、厳しくご指導くださいました。朝岡先生は、私が神学校2年のとき天に駆け上って行かれました。先生は当時48歳でした。また、朝岡先生が誰よりも信頼し、私を託された友人宮村武夫牧師はもう一人の私の恩師であり、宮村先生はバルナバのような方で、わたしに存在の喜びを教えてくださいました。私はどれほど先生の教えに慰められ励まされたでしょう。宮村先生とは今も親しい交わりをいただいています。
 若いマルコにとっては、厳しく伝道者たるものいかにあるべきかを述べるパウロ先生も、やさしく忍耐してくれたバルナバ先生も、どちらも必要だったのです。
 その後、マルコはどのように歩んでいったのでしょうか。使徒の働きには登場しないのですが、パウロの絶筆となった手紙のなかにマルコの名が残されています。「ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」(2テモテ4:11)
 晩年のパウロは、マルコについて言いました。「マルコをともなっていっしょに来てください。彼は私の務めのために役にたつからです。」パウロはマルコの若い日には、「あんな意気地なしで無責任なやつは主の働きのためには何の役にも立たない。ぜったいに連れて行くべきではない。」と言ったのです。しかし、今、マルコは役に立つ人として成長していたのです。きっとパウロは、「あの日、自分はマルコを斬って捨てたけれど、バルナバが愛と忍耐をもってマルコを導き、十分に主の役に立つ器として育ててくださった。」とバルナバのことを、改めて尊敬し、主に感謝していたことでしょう。
 そして、マルコはやがて福音書記者として選ばれ、用いられることになるのです。実に、彼は主の教会のために役に立つ人となりました。若い日には挫折があります。自分は何の役にも立たないものだと悲観してしまうこともあるかもしれません。しかし、主は生きておられます。たとえ弱さと罪のゆえにつまずいて倒れても、もう一度、主に向き直って、主に自分の人生をささげるならば、主はあなたのことをも、後の日に主の役に立つ者としてくださいます。