苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神への愛と隣人への愛


 「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ10:29−31)
 神を愛することと、隣人を愛することは、どういう関係にあるのだろうか。主イエスが二つの愛の戒め並べるとき、常に神を愛することを第一に、隣人を愛することを第二に配置されたことから考えると、神への愛は、隣人への愛に優先すべきだということを意味するということができる。神を思わない愛は、「下がれ。サタン。・・・あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)と、主によって退けられる。
 とはいえ、隣人愛の実践をおろそかにして、自分は神を愛することに徹しているという自己満足は、パリサイ的欺瞞にすぎない。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしています。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます。・・・わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」またヨハネの手紙第一も言う、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(1ヨハネ4:12)私たちは、隣人への愛の実践をもって神への愛を表現するということになる。
 ときには、アブラハムがソドムのために、モーセが忘恩の民イスラエルのためにそうしたように、一見、その民を滅ぼそうとする主の御旨にそむくかのごとく、御前に立ちふさがって、民を滅ぼさないでくださいととりなすことが、さらに深い御旨にかなうこともある。主の賜った使命を重んじ、主から託された民を愛し、主の名誉を貴ぶがゆえに、あの激しいとりなしの祈りがささげられたことを、主がこころに留められたからであろう。
 しかしまた、思い出されるのが、エルサレム入城直前、ベタニヤでマリヤが惜しげもなく注いだ香油の事件である。あのとき、イスカリオテ・ユダをはじめとする弟子たちは、このナルドの香油を売れば300デナリほどにもなって貧しい人々に施すことができたろうといって、マリヤを非難した。だが、主イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」とおっしゃって、女のしたことをむしろ賞賛された。その行為が、純粋な香油のごとく主イエスへの純粋な愛から出ていたからだろう。他方、弟子の口から飛び出した「300デナリを貧しい人々へ」ということばは、表面上取り繕っているけれど、実のない理屈や偽善にすぎなかったからであろう。
 神は霊である。神はうわべでなく、その心をごらんになる。誠実でありたいと願っているのは事実であるが、主から見られたならば、私の心はなんと愛の内実に欠けたものだろう。赤面するほかない。