苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

愛の戒め

 「なにが正しいか?と考えるのではなく、なにが隣人を愛することか?と考えて行動すれば、道を誤らない。」ずいぶん昔読んだ本のなかで、カール・ヒルティがこんな趣旨のことを言っていた。そのときはあまり感心しなかったことばだったが、心に残っていて折々思い出す。ヒルティの思想の出所(でどころ)は聖書である。パウロはクリスチャンの倫理について次のように結論付けている。
 「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(ローマ13:8−10)
 あれこれの戒めというものは、結局のところ、隣人を自分自身のように愛するという大目的のためにある。逆にいえば、この大目的にそむいたならば、どんな正義も正義ではない。どんな理屈も真理ではなく、屁理屈である。
 ウォッチマン・ニーの次のことばも同じ趣旨である。「善悪を論じることはキリストのしもべのすることではありません。キリストのしもべは十字架を背負うのです。」
 では、隣人を愛するとはどういうことか。キェルケゴールはこう言っている。「人を愛するとは、その人が神を愛することができるように、助けることであり、人から愛されるとは、そのように助けられることである。」愛が神ぬきの単なるヒューマニズムの愛に堕ちてしまわないために、たいせつなことばである。

  青いトマト。実は、これからが問題なのです。無事、赤くなってくれますように。