信州の小海に住むようになって最初に知り合った人にあつしさんという人がいる。彼は私を車に乗せて、「とっておきの場所」に連れて行ってくれた。それはとある水源地と牧場だった。いずれも観光化されておらず、実に静かな所だった。車中の会話で、彼は信州には「信濃の国」という県歌があるんだと言った。
一応あちこちに県民の歌は無くはない。だが、信濃の国ほど浸透しているものは珍しい。東京に移り住んだ信州人たちは、県人会でこの歌を歌うのだそうだ。佐久の出の妻に聞いたら、小学校や中学校のころ「信濃の国」にあわせて女生徒たちは遊戯をしたそうである。
信州は明治より以前からひとつの行政区とされてはいたものの、各地域は高い山々で区切られていたために、地域間の文化的多様性、対立意識が強かった。特に松本と長野の対立意識は有名である。明治になったとき、お城があって伝統のある松本の住民は、当然、松本が県庁所在地になるものだと思っていた。ところが、中央集権をめざす明治新政府は地方の力を削ぐためであろう、あえて長野に県庁所在地を置いた。そのため、松本は非常に長野に対する敵愾心があるのだそうだ。類似のことは、日本中あちこちにあって、たとえば青森県でも、弘前が城のある伝統ある町だが、県庁所在地は青森に置かれた。
師範学校の先生がつくり、信州各地に派遣された生徒たちが広めたという信濃の国の歌は、そういう県内の地域間対立を乗り越えさせるのにも、きっと役に立ってきたのであろう。
信濃の国 作詞;浅井 洌(1849-1938)
作曲;北村季晴(1872-1930)
一 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
そびゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地
海こそなけれもの沢に 万足らわぬ事ぞなき
二 四方にそびゆる山々は 御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
浅間はことに活火山 いずれも国の鎮めなり
流れ淀まず行く水は 北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川 これまた国の固めなり
三 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
民のかせぎも豊にて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑採りて 蚕養いの業のうち開け
細き世すがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり
四 尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床
木曽の桟かけし世も 心して行け久米路橋
来る人多き筑摩の湯 月の名に立つ姥捨山
著き名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる
五 旭将軍義仲も 仁科五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆この国の人にして 文武の誉れたぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず
六 吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山
穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道
道一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国に偉人のある習い
歌詞は1節2節は、信州の平野と山河を歌い、3節は信州の産業を歌い、4節は名所旧跡を、5節はその歴史上の有名人を歌う。そして、明治の歌らしく6節は立身出世を励ます。1節で「海こそなけれものさわに(海はないけれどものは豊かで)」と歌ったり、3節で、山の中だけれど信州には食い物、産業はあるんだぞと懸命に歌うところに、かえって、この地は美しい山河に恵まれているけれど、反面、寒く乏しくて苦労したんだなあという感慨を催す。実際、妻の子どものころは、冷蔵技術が乏しかったので、新鮮な海魚を食べることは不可能だったから、魚といえば粕漬けや干物という味覚である。それから、鯉や川魚。お年寄りに聞けば、長らく信州人にとっておもな蛋白源は大豆だった。味噌がうまいわけである。