苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

千曲川


 いつもの散歩道の民家の塀に、上の「7月4日あゆ解禁」の貼り紙があった。現代の日本で町を流れる川で鮎が釣れるというのは、ぜいたくな話といえるだろう。釣り人は、うちの子どもも通った小学校のわきを流れる相木川に釣り糸を垂れる。釣れるのは鮎のほかには、岩魚(いわな)、山女(やまめ)、はやといったところ。
 この相木川は教会堂の丘のそばで千曲川と合流する。千曲川は百キロほどくだって長野市犀川と合流して信濃川となり、さらにくだってはるかかなたの新潟の海に注ぐ。日本最長の川である。南佐久郡の小海、南牧、川上村は、千曲川の源流域にあたる。
 この地に伝道に立ったとき、島崎藤村千曲川のスケッチ』を開いて、あたりの地名をさがした。「甲州街道」というくだりに、佐久の岩村田、臼田、野沢に始まり、小海の馬流(まながし)という地名が見出せる。さらに上流の南牧村、相木村、松原湖海ノ口村の名が記されていてなんとなくうれしい。
 教養ある男子の書く文章は漢文体でという古代からの伝統の後、明治を迎えて、作家たちが言文一致体を生み出すために呻吟し、さまざまな文体を工夫した。藤村はその一人であり、彼はそのために千曲川流域の描写をもって近代日本語の文章を編み出した。

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    甲州街道

 小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前に展けて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間を流れている。
 一体、犀川に合するまでの千曲川は、殆んど船の影を見ない。唯、流れるままに任せてある。この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。
 私は、佐久、小県の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰した千曲川をのみ君に語っていた。今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河域だ。臼田、野沢の町々を通って、私達は直ぐ河の流に近いところへ出た。
 馬流というところまで岸に添うて遡ると河の勢も確かに一変して見える。その辺には、川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧ろ大きな谿流に近い。この谿流に面した休茶屋には甲州屋としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。山を越して入込んで来るという甲州商人の往来するのも見られる。
 馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。Tの家は宮司で、街道からすこし離れた幽邃な松原湖の畔にある。Tは私達を待受けていたのだ。
 白楊、蘆、楓、漆、樺、楢などの類が、私達の歩いて行く河岸に生い茂っていた。両岸には、南牧、北牧、相木などの村々を数えることが出来た。水に近く設けた小さな水車小屋も到るところに見られた。八つが岳の山つづきにある赤々とした大崩壊の跡、金峯、国師、甲武信、三国の山々、その高く聳えた頂、それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺望の中に入った。
 日が傾いて来た。次第に私達は谷深く入ったことを感じた。
 時々私はT君と二人で立止って、川上から川下の方へ流れて行く水を見送った。その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中に遠く炭焼の烟の立登るのも見えた。
 この谷の尽きたところに海の口村がある。何となく川の音も耳について来た。暮れてから、私達はその村へ入った。
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 文中の松原湖宮司の家のT氏は、鷹野氏にちがいない。というのは松原湖にある諏訪神社宮司の家系は、鷹野家と畠山家であるからだ。藤村と親しい人が、鷹野さんの先祖のなかにいたとは、なんとなく不思議な感じがする。藤村は文学史上の名になってしまっているからである。
 また「八ヶ岳の山つづきにある赤々とした大崩壊の跡」というのは、硫黄岳のことだろうか。あるいは天狗のことか。八ヶ岳の大崩壊については1月13日の記事を参照→http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100113